日はじめて閑却していたというような形になるのです。
座敷を隔てたお銀様の間へ伺候《しこう》してみたが、そこに尋ねる人がおりません。身の廻りの物はすべて、そのままにしてありますけれども、御当人がおらず、宿ですすめた茶碗の中の茶もさめきっているのを見ると、お角はなんとなく荒涼たる思いがしないではありません。
ああ、つい、うっかりお嬢様の御機嫌をそこねたか知らん、この心がかりが、お角ほどの女の胸をヒドク打ちました。
「お嬢様は……」
誰に聞いてみても知りません。お角はやや甲高《かんだか》い声になって、
「六さん、お前、なんだって、お嬢様におつき申していないんだエ」
甲州附の従者も叱れないから、自分の従者をドナリつけてみました。
宿の女中に聞いても知らない――
お角は、そこで胸を打ちました。
本来、ちょっとの間、当人の姿が見えないからとて、そんなに胸を騒がせたり、人を叱ったりするほどのことはないのですが、ナゼ、お角ほどの女が、面《かお》の色を変えるほど狼狽《ろうばい》を見せたのか。
「ちぇッ、わたしといったら、自分ながら業が煮えてたまらない、一から十までわかりきっていながら、いい年をして、ついこんな抜かりをしでかすなんて、愛想がつきたものさ、ここを押せばここがハネるくらいのことを、御存じないお角さんじゃないのに、ちぇッ、いやになっちゃあなあ」
こう言って、お角は、焦《じ》れったがって、お銀様の前で使う、あそばせ言葉とは全く違った地金の棄鉢を見せました。
だが、その地金の棄鉢も、今日は、周囲に当り方が軟らかいのは、つまり、焦れったがりこそするが、その失策の責めは、誰にあるのでもない、自分にあるのだ、この年甲斐もないお角さんというあばずれが、存外甘いところを見せちゃった、そのむくいだよ――
お角のように、目から鼻へ抜ける女にとって、お銀様のここにいないということの、心理解剖ができないはずはありません。
美少年と、無遠慮に駕籠《かご》に相乗りをして来たこと、宿へ着くと早々、お銀様を閑却して、かの美少年と長時間水入らずの会話をつづけたこと、この二つがお銀様の、あんまり曲っていないつむじを、曲らしむるには余りあること。
それをいまさら気がついたから、お角は、自分の甘ったるさ加減を、噛んで吐き出してやりたいほど腹立たしくなったに相違ありません。
お銀様が誰にもことわらず、フラリと宿を出てしまったことは事実です。
それは単に、お角が口惜《くや》しがって、想像したような心持ばかりではないらしい。
音に聞えた鳴海と聞いて、歌書や、物語で覚えた古《いにし》えの鳴海潟《なるみがた》のあとをたずねてみたくなったのもその一つの理由です。
鳴海潟のあと、鳴海潟のあとと、たずねて参りましたけれども、誰もそれと教えてくれる人はありません。
鳴海という字面から、古えの文《ふみ》の教ゆる松風と海の音とを想像して来て見たら、松林もなければ、海もない。
人にたずねてみると、海はまだまだこれから遠いとのこと。この辺が海であったのは、遠い昔のことで、鳴海は名のみ、今は鳴らずの海だという。多分、あの小さなお寺のあるあたりが、昔の鳴海潟であったでござんしょう、だが、それは千年も昔のこと――と言われるままに、お銀様は、とあるところの小さな庵寺にまでさまよい至りました。
手のつけようもなく荒れ果てた庵寺。お銀様は堂をめぐってその額などをながめて見ました。
古雅な土佐風の絵に、古歌をかいたのがゆかしい。
読みにくいのを、お銀様は注意して読んでみる。
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あはれなり
いかになるみの里なれば
又あこがれて浦つたふらむ
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と読まれるのもある。
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甲斐なきは
なほ人知れず逢ふことの
はるかなるみの怨《うら》みなりけり
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としるされたのもある。
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昔にも
ならぬなるみの里に来て
都恋しき旅寝をぞする
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とうたわれたのもある。
よみ人の名の記されているのもある、いないのもあるけれども、いずれも古えの名家の歌であることは疑うべくもない。
少しむずかしいのには、
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幾人東至又西還(幾人か東に至りまた西に還るや)
潮満沙頭行路難(潮沙頭に満ちて行路難し)
会得截流那一句(流れを截《た》つの那《か》の一句を会得《えとく》せば)
何妨抹過海門関(何ぞ妨げん海門の関を抹過するを)
[#ここで字下げ終わり]
と読まれるのもある。
どれもこれも、時間の永遠にして、人生のはかないなげき、いかになる身の果ての詠歌でないものは無いらしい――と思われる。
古《いにし》えの人はここに来て、須磨や、明石や、和歌の浦の明媚
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