して、自分が指揮者の地位に立って、ついに今朝の事件を決行してしまったということ――それをかなり爽《さわ》やかな弁舌で説き出しましたから、お角が全く感心してしまいました。
 実は、自分も昨日、赤坂を越えて藤川河原の相撲場の喧嘩は、一から十まで見ていましたが、あなた方としては、已《や》むに已まれぬものがお有りになったろうと御推察申します。
 お角は、この人たちの復讐心を是認したくなって、この少年の義気と、勇気とに、ほんとに舌を捲かせられました。
 だが、苦労人のお角としてみると、その隙間《すきま》のあんまり無さ過ぎるところに、なんだか大きな隙間があるように見えてならぬ。今の年で、これほど隙間のない若い人が、このまま出世したらどんなにエラくおなりだろう。出世しないとしたら、どんなに抜けて行くだろう。お角はそれを考えざるを得ませんでした。それを考えた時に、思わずこの少年の将来のために、祝福ばかりはしていられないように感じました。
 子供のうちは鷹揚《おうよう》なのがよい。少しは馬鹿といわれるくらいでも、間の抜けたところのある方が、あんまり隙間のないのより望みがあるものだ。子供の時に、あんまりきちょきちょ[#「きちょきちょ」に傍点]したのはいけない――というような先入的の頭を以てこの少年を見直すと、隙間のないところに、真黒い影が漂っているではないかとさえ思わしめられます。
 全く、そうです。男がよくて、腕が立って、気が利《き》いて、年が若い――と来ている。白井権八がそれではないか。それよりも、もっと手近に、もっと大物、あの日本左衛門というのが、たしかこの附近から出ていたはず――聞くに、日本左衛門という男の出発点も、この少年に似通《にかよ》ったところから、その長所がすべて、悪用されて、あたら有為の大材になるべきものが、あんなことで終ってしまったものではないか。
 お角は、ついこんなことまで気が廻ったものですから、改めて、応対話にかこつけて、意見のようなことを言いました。
 将来を大切になさること、御修行中は、もう決して腕立てはなさらぬこと、頼まれても引受けぬようになさるべきこと――つまり、すべての所行というものを封じて、当分、勉強なさって、御帰参の時を待つか、そうでなければ大都会で、もう一修行なさることを望みます、というようなことを言って聞かせました。少年にはこの言葉がわかるらしい、決してこの教訓を、内心で舌を吐いて聞いているのではないらしい。
 やがて、今後の身の振り方というようなことになって行くと、今朝の出来事は、藩の諒解を得てやったことではないにきまっているが、その事の結果は、藩の面目のために戦ったことにもなるから、藩の方でも、他の罪人を追究するように厳しいことはすまい、まあ、当分、足を抜いていさえすれば、おのずからほとぼりも冷めて、相当期間の後には、無事、帰参のできるようになるにきまっている。それまでの間、知人もあるから当分、名古屋へでも行ってみようというようなことを、極めて軽く取扱っているから、お角が、そこでも、少し考えて、くさび[#「くさび」に傍点]を打ってみました。
 なるほど、それはそのように、わたしたちにも思われますが、なお思い過ごしをしてみますと、一藩だけの間の出来事ならばともかく、相手は他藩、ことに御三家の一なる名古屋藩の城下の者――たとえ士分の者でないとはいえ、相手は御三家のお膝元の者、ことに二人は仕留めたが、二人は逃がしてしまっているから、先方の証人に不足はない、正式に藩から藩へのかけ合いでもあった日には、そう、あなたのお考えになるほど、事は単純に参りますまい。
 ことに、あなたが、これから名古屋でお住まいになるとすれば、敵の中で暮らしているようなもので、油断はできないと思います。
 こんな注意をお角から受けると、なるほど、そう言われると、それはそうかも知れぬ、自分がこれから名古屋城下に落着こうという考えは、少々軽率であったかも知れない、では、改めてどうしよう――さすが利発な少年が、少々迷いはじめて来たようです。
 そこで、お角は、当分の間、江戸へでも行ってみたいとのお考えならば、適当の隠れ家を御紹介して上げましょう――いっそ、このまま、名古屋をつき抜けて、自分たちと一緒に京大阪から金毘羅《こんぴら》までも……とまでは言わず、いずれその辺は今晩にも、ゆっくり御相談を致しましょう、お疲れでございましょうから……お風呂をお召しになって、お休み下さい。
 こう言って、かなり長い時間の二人の会話は終り、少年を先に風呂へやって、さあ、これからお銀様へ御機嫌うかがい……ということになると、自分はあんまり少年との話に身が入り過ぎ、時間がかかり過ぎたりしたことを気がつきました。それは同時に、今までは下へも置かなかったお銀様を、今
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