ぶ》を一株、根こそぎ引きぬいて、さっと表道へ引上げる。
それから、松林の間の細い道――土を落して皮をむいて、歩きながらがりがりとかじる、一本のさつま薯。残りの分は、木の枝でからげて腰にブラ下げて歩み行くと、その林の間から思いがけなく人の気配。
ようやく人間にありついた、見られない先に、こちらから断わろう――畑荒しと見られてもつまらねえ――
現われ出でた漁師に向ってたずねるよう。
「ここは何というところダエ」
「エ?」
「いったい、ここは何というところなんだね、尾張の名古屋へ出るには、どっちへ行ったらいいんですかね、名古屋へ帰りてえと思うんだが」
「名古屋へ……では、一度鳴海の本宿へお出なさい、その方がようござんすよ」
「鳴海……鳴海潟というんだな、昔から名前だけは聞いてらあ、そうかなあ」
「鳴海の本宿へ出て、それから東海道を真直ぐに行けば名古屋へは間違いっこなし――宮へ出るのもいいが、はじめての人にはわかりにくいから、いっそ、鳴海へ出ておしまいなさいよ」
「そうかね、では、そういうことに致しましょう。鳴海から名古屋までの道のりは知れたもんだろうなあ」
「三里だよ」
「どうも、有難う」
宇治山田の米友は、やがて教えられた通りの広い街道に出て、それを尋常に歩いて行きました。
最初は野を、山を、横っ飛びに、飛び歩いたものが、尋常に、傍目《わきめ》もふらずに歩み行くと、かえってまた様子がおかしい。
果して、傍目もふらず、ぐんぐん歩いて行くうち、ハッと気がついた時に夥《おびただ》しい狼狽《ろうばい》がある。
天下の往来を歩いて来たのだから、道そのものを踏み誤るはずはないが、立ちどまった時、天下の往来そのものに向って今更らしい、驚異と、迷いとを感じ出した面《かお》の色をごらんなさい。
言わないことじゃない、実は、東西と南北とを忘れていたのです。
東西と南北とを忘れたのは、右と左とを取りちがったあやまりであり、近くいえば、鳴海と名古屋とのあやまりであり、それを延長すれば、京と江戸とのあやまりであり、縦に持って行けば、天と地のあやまり。
ここに至って、米友が、はじめて我に帰りました。鳴海の本宿へ出ろといわれたのだが、本宿はうかと通り越したのか――本街道は本街道だが、東と西がわからない。
ああ、何か、東西と南北とを示す標準はないか。
往来の人馬――は動くものだから、標準にならないと思いました。路傍の人家も、特にこの男のために東西を記したのはありません。山川草木も、南北を指しているのはない。道標か、札場は……それも見当らない。
米友は地団太を踏みました。
誰かをつかまえて、尋ねてみれば直ぐにわかることだが、この際の米友は、人間というやつをつかまえて教えを乞うには、かなり驕慢《きょうまん》に出来ていました。
「ちぇッ――東西南北がわからねえ」
こう言って天下の大道に立ったものです。と見ると、左の方に石柱が一本立っている。そうだ、多分あれに、何のなにがし、何里何町と刻んである、ひとつ見てやれ――
石の柱へちかよって見ると、それは道標でも、里程でもなく、ただ二字、石に刻んだそれが「笠寺《かさでら》」と読まれる。
笠寺!
こいつを入って行けば、その笠寺というのへ出るんだな。
笠寺! 聞いたような名だな。そういえばこの入口が何だかうろ覚えのあるような道だ、一度は通ったことのあるような気がするぞ。
行ってみろ――
ははあ、そうだそうだ、その昔、故郷を出奔し、ひとり東海道の道を下って行った時、ここへ入り込んで、この寺の軒の下を一晩お借り申したことがあったっけ。その翌朝、親切な寺番に見つけられ、叱られもせずに、温かい御飯と、温かい味噌汁とを振舞われたことがあったっけ。
その覚えのある道だ。
そうだ。だが、今、ようやくその寺の名を思い出すくらいだから、土地の名もさっぱり記憶はしていないが、やっぱり、熱田の宮から程遠からぬところであったとは、うろ覚えに覚えている。
とにもかくにも、昔なつかしいあのお寺の門前まで行って見てのことだ。
やがて、さまで大きからぬ古寺の門前。
たしかにここだ。
ここに堀があって、そこに門があって、宝塔があって、護摩堂があって、突当りが本堂で、当時、自分が御厄介になったのは、あの地蔵堂の下で、わざわざ朝飯の御馳走をしてくれたのは、護摩堂の後ろの小さな家にいる老夫婦だった。
ははあ、それではこの寺が「笠寺」といったのか。
今日この頃も、いろいろ心配はあるが、あの時に比べれば、頼るべき人と、宿るべきところに事を欠かないだけが、せめてものまし[#「まし」に傍点]というものか。しかし、あの時、東をめざして進んで行った憂き旅の間にも、何か希望のようなものが前途にあって、旅は辛《つら》いながらも
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