さあ、この後日がどうなるかと、お角は他事《よそごと》でないように案じました。

         五十

 聞いてみると、二人の若い悪ざむらいは、岡崎藩の者だそうです。
 東照権現誕生の地――五万石でも城の下まで船がつく、とうたわれた岡崎様の家中も、こんな若ざむらいばかりではあるまいから、後日が思われる。
 ところで、この一場の争闘が、さしもの相撲興行を、ほとんど入《いれ》かけにするほどの騒ぎになったから、お角、お銀様の一行も、角力見物《すもうけんぶつ》はそのままで打ちきって、もと来た方へ戻ることになりました。そうして、その日のまだ高いうちに、無事に岡崎に着いて、桔梗屋というのに宿を取り、その翌朝も尋常に出立して、岡崎城下を新町から、日本一の長い橋と称せられた二百八間の矢作《やはぎ》の橋を渡って、矢作から西矢作の松原へかかった時分に、不意に、お角の駕籠《かご》の棒鼻がおさえられてしまいました。
「その駕籠、少々待たっしゃれ」
 女長兵衛の格で納まっているお角が垂《たれ》を上げて見ると、棒鼻をおさえているのは、権八よりはまだ若い、振袖姿のお小姓らしい美少年が、刀の鯉口を切って、
「御迷惑でもござろうが、おのおの方におたずね致したい、お控え下さるよう」
 棒鼻をおさえての申入れが、事有りげではあったが親切でしたから、女長兵衛も、お若けえの、お控えなせえとも言えず、神妙に、
「何の御用でございますか」
 駕籠から出て挨拶をしようとするのを、
「いいや、そのままで苦しうござりませぬ、そのままでお尋ね致したいが、あなた方は、いずれへおいでになりますか」
「はい、わたくしたちは、江戸から参りました者、名古屋まで参る途中のものでございます」
「御婦人と見受け申す、して、その後ろのお方は……」
「あれは、わたくしの主人でございます、やはり女でございます」
「お二人とも、女子《おなご》づれ、しておともの衆は、この三人だけでござるか」
「はい、六に、松に、芳……三人でございます」
「三名ともに、江戸から御同行でござるか」
「はい、二人だけは甲州から連れて参りました」
「近ごろ、ご無礼の至りなれど、一応、後ろのお乗物の中のお連れにお目通りがしたい、拙者は岡崎藩の中、梶川与之助と申すもの、友人のために黙《もだ》し難き儀があって、人あらためを致さねばならぬ次第により、枉《ま》げてこの儀をお願い致す」
「ご挨拶恐縮に存じます、どうぞ、充分におあらため下さいませ」
と言って、お角は駕籠《かご》を出て来て、お銀様の乗った駕籠のところまで、右の美少年を案内して来ました。
 事実をいえば、お角は、お銀様の乗物を、人にあらためさせたくはないのです。お銀様もまた、なによりも人に見らるることを嫌うのを心得ているのですが、この場合、相当に条理のありそうな、この士分の者のあらためのかけ合いを、素直に聞いてやらないのは、かえって不利益だとさとりました。
 お銀様があらためらるることを快しとしないだけで、憚《はばか》りながら我々の方は、さかさにふるってあらためられたところで、後暗いことなんぞは微塵もないのだ。そこでお角が、お銀様の乗物に向って、
「お嬢様」
「はい」
「お聞きの通り、岡崎様の御藩中の方が、なんぞ人あらためをなさりたいとの思召《おぼしめ》しでござります」
「はい、どうぞ、御自由に。なんならそれまで、罷《まか》り出でましょうか」
 お銀様は、動ぜぬ声で答えました。
 その声を聞いただけで、岡崎藩の美少年は納得したようです。
「いいや、そのお声で、たしかに御女性とお察し申します、乗物をお立ち出で下さるには及びませぬ、一応、御旅切手だけを拝見お許し下さるよう」
「心得ました」
 お角はお関所切手を取り出して、美少年に示すと、美少年は篤《とく》と見了《みおわ》って、充分に理解が届いたと見え、
「これは近ごろ、ご無礼の段、お許し下さるよう、どうぞ、そのままお通り下されませ」
「こちらこそ失礼をつかまつりました」
 お角はこう言って挨拶をして、再び駕籠の中に納まりましたが、これより先、早くも胸に思い当るところのものがありました。
 当然――これは昨日のあの相撲場の喧嘩のなごりだな……
 どのみち、あれだけでは納まりのつかない後日があらねばならぬ。実は昨夜の泊りから、今朝まで、それとなく、噂《うわさ》に耳を傾けていたのだが、さっぱり静かなものであるのを、むしろ意外としていたくらいのものでありました。
 あれで、あの若ざむらいたちは泣寝入りかな、身から出た錆《さび》だから、誰を怨まんようはなきものの、このままで空々寂々では、あんまり張合いが無さ過ぎる――と、お角もなんとなく拍子抜けがしてここまで来たところだから、ここで棒鼻をおさえられた時分に、ハッとそのことに思い当ってはいたの
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