です。
自分たちの駕籠をおさえて、人あらためにかかったのは、右の美少年ひとりだけだが、行手の松林の中に相当の人数が控えている、これは愚図愚図していると人違いの災難を受ける、そこをお角が感づいて、先を越して早くも素姓《すじょう》を露出して見せたお角の機転もさることながら、この美少年が、年に似合わず落着いて、ハキハキした応対ぶりに感心させられないわけにはゆかぬ。再び動き出そうとした時、その美少年は再びさしとめて、
「あいや、憚《はばか》りながら、もう一度、お乗物をお戻し下さい。実は、拙者、ただいま思案いたしたところによりますると、この先、また、我々同様のものあって、お乗物に御無礼を致さぬとも限らぬ――つきまして、ここ一刻ほどの間、あれなる松林の中にて御休息あってはいかがでござろう、そのうち、我々の求むるところの目的が果されさえ致すことならば、次の駅まで人を以てお送り申し上げてもよろしい、暫時、あれなる松林にお控え下さるまいか」
その申入れをお角はことごとく受入れて、この一行は道を枉《ま》げて、その松林の中の松の木蔭のほどよいところに駕籠を置き、そこでしばらく休む。
一行を、ここへ導いておいてから、右の美少年は、再び街道へ取って返しました。
果して、これは昨日の喧嘩の引返し幕だ、しかもこの幕が本幕だ、これはお詫《わ》びでは済まない、わたしたちは、見ようとしても見られない本芝居を、見せられる羽目となった。
ほどなく――二挺の駕籠が――その駕籠と従者との並木から現われたのを見た瞬間、松林の方からバラバラと姿を現わして、さいぜんの美少年のところまで走《は》せつけた三人の者。
そのうちの二名は、たしかに、昨日の藤川河原の立者《たてもの》の再現であることをお角は見誤りません。
自分たちにしたのと同様に、まずその美少年が棒鼻をおさえると、駕籠の中から転がり出した一人の男。
それは遠目で見てもわかる、小肥りにして丈の高いかの料亭の親方。たしか名古屋の河嘉の松五郎とか名乗っていた、その男に違いない。駕籠から転がり出して、美少年に武者ぶりついたところを、早くも美少年の刀が抜かれて、一太刀浴びせたようです。
一太刀斬られて腕を打ち落され、後ろへひっくり返るところを、
「昨日の無礼、覚えたか」
と言ったその声が、お角のところまで透るほどです。よくよくの恨みをこめたためでしたろう、さまでの大音ではなかったが、キリキリと歯ぎしりする音までが、お角の耳にまで聞えたようです。
それから後、走せ加わった都合五六名ほどの者が、
「僭上者《せんじょうもの》、無礼者、憎い奴、身の程知らず、これで思い知ったか、岡崎武士の手並!」
寄ってたかって、骨髄に徹する恨みのほどを乱刀の下に、柄《つか》も、拳《こぶし》も、透《とお》れ透れと、刺しこむのです。
残忍至極だが、昨日の結果としては、是非のほど、何とも言えない!
これは実に瞬間の兇事でしたが、次の瞬間には一行の駕籠屋が逃げ出すこと、昨日の鼻っぱしの非常に強かった身内の者と、宰領と、荷持が、度を失って逃げ惑う。
それを追いかける者――
その時、後《おく》ればせに走《よ》せつけた見慣れない大男――刀を横たえ、息せききって来合わせたのをお角が見ると、ははあ、相撲取だと思いました。
相撲取だ――とすれば、この一行の贔屓《ひいき》相撲が心配のあまり、あとから追いついて来たのか、そうでなければ、一緒に護衛の任に当って来たのが、一足後れたのか、ともかくも、こちらの味方でなく、先方の後詰《ごづめ》の形で現われたということをお角が見て取っていると、右の相撲は刀を抜いて、ひとり立っている美少年の方に向い、一人は手に携えていた太い棒をグルグルと振り廻して、逃げ惑う味方を追っかけている武士方に立向う。
美少年に立向った力士は、一太刀合わせるまでもなく、小手を切り落されて、よろめきよろめき後へさがるところを、小溝へつまずいて、後ろへ倒れたまま、パッと水を飛ばして、姿は再び現われないから、多分、溝が狭いのに、身体《からだ》が大きかったものだから、すっかり食い込んで、動きが取れないものと見える。
一方、大木を振りかざした一人の力士は、五人の行手にふさがってみたが、この五人の武士たちの勇気は、昨日の川原の光景とは打って変った鋭いもので、かいくぐり、かいくぐりして、とうとうその力士をも乱刀の下に仕留めてしまう。
さて、親方を見殺しにして逃げた三人の者、その一人は親方の養子――他の一人は宰領、他の一人は荷かつぎ。
美少年ひとりだけが現場に残って、あとは、透かさず三名の恨みの片割れを追撃しに出かけて行ってしまいました。
まもなく、彼等が、一人の若い男をズルズル引きずって来るのを見る。
それが、昨日、親分にも負けない喧嘩
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