広場です。お銀様も快く駕籠を出て、茶屋から借りた草履《ぞうり》を穿《は》いて、盛んに景気を立てている相撲小屋の方へと、石ころ道を歩きはじめました。
 先に立ったお角のキビキビしたのと、連れの若衆《わかいしゅ》も、気負いと老巧なのを三人つけていたのが、一緒になって歩き出しました。
「ねえ、お嬢様、あの幟《のぼり》の一つをごらんなさい、舞鶴駒吉てのがございましょう、あれはね、駿河の生れで、そうですね、安政六年の春でしたか、回向院《えこういん》へ来たことがありますよ。回向院へ来る前から、わたしは知っていました。こっちの物にしようと考えているうちに、相撲に取られてしまいました。相撲に取られるのが本筋なんでしょうけれど……何しろ、その時に八歳《やっつ》で、二十五貫目からありました、相撲のうちでも、めったにあんなのは出ません。その後、どうなったかと思っていたら、ごらんなさい、あの幟がそれでございますよ。まあ、あんなずう体[#「ずう体」に傍点]を見ておくのも学問になりますから、ひとつあの子に会ってやってみて下さいまし」
 お角がお銀様にこんなことを言いました。
 この時分、後ろの赤坂の方面から来るのと、行手の藤川筋から往くのと、それに意外に間道をつめかけて来る近郷近在の衆とが、河岸の広場の相撲小屋をめざして進んで行く光景は、蟻の町の立ったような見物《みもの》でありました。
 お銀様とお角の一行も、その見物《けんぶつ》の群集に交って、歩きにくい道を進んで行くと、後ろが遽《にわ》かに物騒がしい。
 振返って見ると、人々が怖れて、逃げて通すのも道理――酔っぱらって、傍若無人に振舞いながら、こっちへやって来るのは、血気盛りの二人の若い、二本差しているところから見ても、このあたりの藩の士分の者と見えるそれが、かなり酒気を帯びているらしく、傍若無人に振舞い、農工商連の怖れてよけて通すのをいいことにして、婦人をめがけて戯れかかるらしい。こうして見物に行く婦人連をおびやかしながら、ようやくお角と、そうしてお銀様の一行のすぐ後ろまで迫って来ていました。
 お角は、ちょっとイヤな面《かお》をして見ましたが、なあにと軽くあしらって、やり過ごしてしまった方がいい……少し避けて通そうとすると、どっこい、二人の生酔いのさむらいが、いい獲物《えもの》と、やにわにお銀様の方に近づいて、その頭巾へ手をかけようとしますから、お角がそのところに立ち塞がりました。
「ホ、ホ、ホ、たいそうよいお機嫌でいらっしゃいますね、でもお足許がおあぶのうございますよ」
 こういった気合に、二人の生酔いの悪ざむらいがちょっと気を呑まれた形でした。
 その途端に、連れて来た、六さんといって喧嘩上手で聞えた兄《あに》いが、ちょっと江戸前の喧嘩っ早い息を見せたのが、近郷近在連とは手ごたえが違ったと見たのかも知れません、何ということなしに機先を制せられて、そのまま、二人の生酔いの悪ざむらいは、鋒先《ほこさき》をそらして、ずっと前へ進んでしまいました。
 つむじ風をやり過ごして、足並みを立て直したお銀様とお角の一行――
「飛んだ金十郎だよ」
とお角が、軽蔑の冷笑を後ろから浴びせているにもかかわらず、二人の生酔いの若ざむらいは、なお行く手の見物人に存分悪ふざけを試みながら行くのを見て、この分で、相撲小屋へつくまで、また場内へ入ってから後に間違いがなければいいが――と気を揉んだのはお角さんばかりではありません。同じ金十郎にしても、アクドい。
 間違いがなければいいが――
 果して……まだそれとは言えないが、一町程の先手《さきて》、ちょうど、赤坂口と藤川口とが落合うあたりの辻のところで、
「喧嘩だ、喧嘩だ――」
 それ見たことか。見ているまに、黒山となった人だかりが容易に崩れないのは、喧嘩のたちが悪くなったに相違ない。
 当然、行くべき道筋、お角さんの一行は、いやでもその場へ通りかからねばなりません。喧嘩の売り方は言うまでもなく、さいぜんの生酔いの二人の若ざむらいで、それを買ったのは、町人風であるらしい。
 その町人の後ろには、男の連れが三人ばかりあって、これが、町人に応援している。この町人の一行はかなり贅沢《ぜいたく》な身なりをして、垢抜《あかぬ》けのしたところ、どうもこの辺の小商人《こあきんど》とは見えない。そうかといって、しかるべき大店《おおだな》の旦那とか、素封家とかいうものとも見えない。女郎屋の主人とか、料理屋の亭主とかいったような感じの男であって、それにつき従う二三の者も、その身内であったり、従者であったりするらしい。さればこそ、売られた喧嘩を買っている。普通の金持ではやすやすと、売られた喧嘩を買いはすまい。
 この町人の一《いち》まきはそれだけではない、後ろを見ると、十余名の芸妓、雛妓《すうぎ》の
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