とすれば、尾張を、徳川家から去勢させたのが宗春《むねはる》だ――宗春以後の尾張は、華奢《きゃしゃ》と、遊蕩《ゆうとう》と、算盤《そろばん》との尾張だ、算盤をはじいて女道楽をする気風の間から、天下の大事は捲き起らない、敵としても怖るるに足りないが、味方として頼むには足りない尾張、やがて風向きのいい方へ、どちらでも傾くよ」
と言った壮士は、おたがいに呼ぶところの名をもってすれば、相良《さがら》と言ったり、小島と言ったりする。
 どうも、その談論風発の勢い、どこぞで見たところのある――ああ、そうそう、たしかにあれは三田の薩摩屋敷にいた。しかも薩摩屋敷の浪士のうちでも牛耳を取っている男に、たしかにこれがいた。
 この一座の語るところは以上の如く、その間、かの女性は神妙に一座を取持っている。相良はこの女性を顧みて、時々、
「梅野さん、梅野さん」
と呼ぶ。
 なまなかの道づれや、かりそめの道案内者として、雇うて来たものではないらしい。
 こう言って尾張をそしるもあれば尾張|贔屓《びいき》もあるらしい。
 尾州|慶勝《よしかつ》が水戸の烈公と好く、多年の尊攘論者《そんじょうろんしゃ》であり、竹腰派の勢力は今は怖るるに足らず、金鉄組の勢いが強く、成瀬、田宮の派が固めているから大丈夫――万一の際は、こっちのものだと安心している者もある。
 この相良とか小島という新入りの壮士が連れて来た右の一人の女性。それは、やっぱりわからない。或いは、この一味に投ずるほどの女侠か、そうでなければ、相良が、松本あたりから雇うて来た女案内人か。それにしては肌が柔らかい。

         四十九

 お銀様を誘い出して、尾張の名古屋を的に東海道を上るお角さんの一行は、無事に三州の赤坂の宿《しゅく》まで来ました。
 道中馴れたお角の歯ぎれのいい女っぷりに、事新しく感心したらしいお銀様。そのおかげで、今までに経験したことのない快い旅路をつづけ得たと思いました。
 お角という女は、お銀様に対してこそ、妙に気が引けてならないが、その他にかけては、無人の境を行くようで、さすがの雲助、胡麻《ごま》の蠅のたぐいも、はね返して寄せつけない気象。
 宿に着いてから出るまで、万端の行き方が小気味がよく、啖呵《たんか》が冴《さ》えきって、行き方がさばけきっている。お銀様は、お角と同じ道中をしてみて、はじめてお角のえらさがわかってきたように思います。
 赤坂を出て宝蔵寺まで来た時分に、お角は駕籠《かご》の中から、景気のよい旗幟《はたのぼり》を見て、グッと一つの興味がこみ上げて来ました。
 ははあ――興行だな、芝居ではない、相撲だな、この景気で見ると、まんざら田舎相撲とも思われない、江戸か上方、いずれ大相撲の一行が、この辺で打っているのだな――
 まもなく、櫓太鼓《やぐらだいこ》の勇ましい音。お角の鼓膜にこたえて、感興をそそり、腕がむず痒《がゆ》いような気持がしました。
 天性、興行師に出来ているこの女は、見物心理として感興を湧かされるのではありません。いわば剛の者が、戦陣の前に当って武者ぶるいを禁ずることができないように、いやしくも、興行物となってみれば、大きければ大きいように、小さければ小さいように、都会ならば都会のように、田舎ならば田舎のように、技癢《ぎよう》に堪えられないで、その物音を聞くと武者ぶるいをするところの病があるのです。
「おや、大相撲らしいが、どんな面《かお》ぶれだろう」
と、旗幟の文字を読んでみると、その真先に眼に落ちた一つに、
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「大関、舞鶴駒吉――」
[#ここで字下げ終わり]
という白ぬきの大文字を見た途端に、ツーンと頭へ来てしまいました。
「はあ、舞鶴駒吉――あれからどうしているかと思ったら、こんなところに来ていたのかねえ」
 勧進元は誰がやっているか知らないが、乗込んで見れば存外知った面で、おたがいに、これはこれはという段取りかも知れない。
 茶屋の前で、ちょっと駕籠を休ませて、
「お嬢様」
と後ろを顧みて言いました。
「はい」
 お銀様が、垂《たれ》を上げない駕籠の中から返事をする。
「相撲はお好きでございますか」
「好きでもありませんが、嫌いという程でもありませんよ」
「田舎にしては、ちょっと珍しい相撲がかかっていますから、のぞいてごらんになる気はございませんか」
「お前さんが見たいと言うんなら、わたしも一緒に参りましょう」
「岡崎泊りには時間がたっぷりございますから、なんならひとつ、相撲を見てやりましょう」
「お前さんのよいように」
「では、お嬢様、これから駕籠を下りて参りましょう、石河原ですけれど、そんなに遠いところではありませんから、おひろいでおいで下さいまし」
 お角が先に出て、案内に立ちました。
 相撲場は、直ぐに眼の前の
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