山径である。そこで、土地の人が外出する時には、必ずなめくじ[#「なめくじ」に傍点]を二三匹と、蟹《かに》を煙草入の間に忍ばせて行く。なめくじ[#「なめくじ」に傍点]は蛇の属であるところの蝮を穴に追い込む道具で、蟹は猿を怖れしむるもの――そは冗談として、春夏の候、白川に入るの困難は、迷宮に入ることの困難の如くであるが、秋冬の間は、道がよく踏めてわりあいにその困難から救われるという。
そうして、その難路を分け入って、白川村に着いて見れば、土地は美しく、人情は潤《うるお》い、生活の苦もなく、相互の扶助が調《ととの》い、しかも遠人を愛して、悪人といえども、悔いて身を寄するものは、赦《ゆる》して永久に養うことを厭《いと》わない、ひとたびこれに入ったものは、永久に帰ることを忘れる、というような――太古の民、神代の風、武陵桃源の理想郷といったようなものが、よくよくお雪の脳裡に描き出されて、あこがれに堪えられないらしい。そのあこがれがあるところへ、目下の身辺の、なんとなく不安を感じ出したものですから、その想像が、いよいよ切実に誘いきたるもののようです。
四十八
別に、その同じ夜更けて、自称お神楽師《かぐらし》の一行は、池田良斎の許に寄り合って、額をつき合わせて、あまりあたりを驚かさぬ程度で、談論しきりに湧くの有様でありました。
その一団は、いずれも見知り合いの面《かお》ぶれでありますが、ただ一方の炉を守って、お茶番の任をひとりで引受けながら、一座の談論に耳を傾けている一人の女性があることだけが、最も意外で、且つ、異彩であります。
それは、さいぜん、お雪が極《きわ》めをつけた通り、この冬籠《ふゆごも》りの白骨には、お雪をほかにして女性というものは無かったが、今宵に至って、降って湧いたように、この席に現われたものであります。
色の乳白色な、小肥りといってよいくらいな肉附の、三十を越した年増ではありますが、キリリとした身のこなし、真黒な髪をいぼじり[#「いぼじり」に傍点]といったように無雑作に巻きつけてあるのは、この際だからやむを得ますまい。
今まで無かった女性が、ここへ現われたのは、天から落ちて来たのでもなく、地から湧いて来たのでもなく、先刻、お雪が取次をして、北原が迎いに出でたところの、名古屋から来た紅売りその人なんでありましょう。そうだとすれば、旅路の必要から、男装して来たものが、ここではその必要を解いて、本来の姿を見せているものと見られる。
ここ、白骨に冬籠りをやっている自称お神楽師連が、必ずしも自称お神楽師でないことを知る者は、これをたずねて、女の身で大胆にも、冒険にも、ここまでひとり旅をして来た名古屋の紅売りなるものが、単純な紅売りでないということもあたりまえです。
それはこの一座の誰|憚《はばか》ることなき談論を聞いていれば、ほぼわかることで、世間ですれば四方《あたり》を憚る秘密会議も、このところで、こうして水入らずにやれば、誰に遠慮もいらぬこと。
その、遠慮の入用のない秘密会議の雑話と、熟議と、談論とを混合してみると、さすがにこれは炉辺閑話とは全く趣を異にしています。京阪、或いは関東の要所に於て、二三人集まって、こんな事を口走れば、忽《たちま》ち身辺に危害が飛ぶ。それをここでは、つまり露骨に、陰謀が評議されているのです。さすがに陰謀の要点に触れると、声は多少低くなりますが、それに附随して議論を闘わすという段になると、意気軒昂として、火花を散らすの勢いです。
この秘密会議の内容を綜合してみると、飛騨の高山と、尾張の名古屋とが、話題の中心になるらしい。
慶長以来の、関ヶ原当時の陣形を細やかに持ち出すものがある。結局、美濃、尾張の平野は、今日でも大勢を制するの中原であって、その中原の後ろを押えるものが、近江と飛騨とだ。石田三成は近江に根拠を置いたが、飛騨を閑却したのはいけない。我々は、飛騨を押えておらねばならぬ。飛騨を押えるのは、難事ではないが、目的は尾張にある。
小牧《こまき》であり、大垣であり、岐阜であり、清洲《きよす》であり、東海道と伊勢路、その要衝のすべてが、尾張名古屋の城に集中する。
今し、彼等の間に拡げられた大地図は、尾張の中原平野の地図であって、その上に筋違《すじかい》に打布《うちし》かれたのが、尾張名古屋城の細部にあたる絵図面であります。
そこで、一座の陰謀の中心は、尾張名古屋の城の研究ということに集まっているらしい。一座の異彩、名古屋から昨晩着いた紅売りの女――も多分、それがために有力な資料を持ち来《きた》した一味の同志の一人と見るよりほかはありますまい。
「名古屋は、怖るるに足りない」
と一人が言いました。
「水戸を、徳川というものに反逆させたのが光圀《みつくに》であり
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