りますとも、いくらもございますよ。第一、この谷を後ろへめぐって飛騨《ひだ》の国へ出ますと、平湯《ひらゆ》の湯といって、いいお湯があるそうです」
「なるほど」
「そこは山国は山国ですけれども、こんな迫った谷間《たにあい》ではなく、もっとゆったりした……気分のところだそうでございます。それよりも、もっと面白いところは、それより奥へ行って、やはり飛騨の国の白川郷《しらかわごう》というところがあるそうです、そこは全くこの世界とは交通の絶えたところで、人情も、風俗も、神代《かみよ》のままだとか聞きました。その白川郷の話を聞いた時に、私はそんなところに一生を住んでみたくてたまらなくなりました」
「聞いて極楽、見て地獄ということは、世間にありがちのことだから、正直なお雪ちゃんが、うっかり聞いたままを信ずると、後に大きな失望をするに違いない」
「いいえ、それとは比較が違います、白川郷というところは、悪いところであろうはずがないことがよくわかりました、そうしてわたしは、なにもかも一切あきらめて、その白川村へ入ってしまった方がいいのじゃないかと、ずっと以前から思案しておりました。それは久助さんに話せば、むろん、賛成はしません、誰だってほかの者が承知をするはずはありませんけれど、わたしは、それがいちばん、わたしたちのこれからのためによい道ではないかと、思い定めていましたからお話をするのです」
「そうかなあ」
「ねえ、それですから、先生、あなたさえ御承知くだされば、明日にもこの白骨を立ってしまいたいと思います」
「誰にもことわらずに?」
「ええ、あなたと二人だけで」
「駈落《かけおち》をするのだな」
「駈落というわけじゃありませんけれど、誰かに言えば、キット留めますもの」
「では、それも一思案として、どうしてここを出ますか。お雪ちゃんだけは、出られるとしても、相手を連れ出す手段がありますまいね」
「それは、あなたさえ御同意くだされば、きっとできると思います、時々、あちらから入り込んで来る猟師さんたちに、そっと頼んでみても話がわかってくれるだろうと思います」
「うむ――そうかなあ」
「先生、よくって、あなたが御同意をして下されば、わたしは今日から、その実行にかかります」
「さあ、いよいよとなれば一大事だ」
「いいえ、一大事ではございません、万が一、間違っても、牢破りをするのとは違いますもの、久助さんだけにあやまれば済みます。けれども、わたしが心を決めてやる以上は、決して、やりそこなうようなことはしませんよ。もし、やりそこなうようなおそれがあれば、やらないうちにやめてしまいます。とにかく、わたしに任せてみて下さいな、ねえ、先生」
「それほどまでにして、ここを出たいの?」
「ええ、それは、あなたのためばかりではございません、わたしのためにも……来る人、来る人が、どうも、あなたを探しに来る人に見えたり、また、わたしをさぐりに来る人にばっかり見えて、たまりませんもの……白骨は、もう落着きません、どうしても、白川まで行きたいと思いつのりました。白川ならば、平家の落武者ではありませんけれど、永久に、わたしたちの身を隠すことができましょう――わたしたちばかりでなく、子供たちや孫の代まで、落着いてこの生を託することができるというわけではありませんか。ああ、白川へ行ってしまいたい、ねえ、先生、御同意ください、いいでしょう、この白骨を脱け出すことに御同意をして下すって、その方法を一切、わたしにお任せ下さいな――そうして白骨から白川で落着いて、そこがほんとうに住みよいところでしたら、一生をそこで暮しましょう。そうして落着いているうちに、先生の御養生も届いて、立派にお目があくようになれば、また、どうにでも方法はございます。もし、また、その白川とやらも、思わしくないようでしたら、それこそほんとうに、この世の行きづまりですから、わたしは、もう、それより以上に生きようとは思いません……ですから、どうぞ、そんなようにして、誰にも話さずにこの白骨を抜け出すことに御同意をして下さい、そうして、その方法を、わたしにお任せ下さいな、ね、いいでしょう、どうぞお願いです」
 こう言って、お雪としては珍しいほどの昂奮を以て、一生懸命に訴えてみましたが、竜之助はハッキリした返事を与えませんでした。
 けれども、ハッキリした返事を与えないことが、同意の表示であるように、お雪をして遮二無二《しゃにむに》、思い進ませた結果になりました。
 伝うるところによると、飛騨の白川村に通ずる路は、千岳万渓の間に僅かに一条の小径《こみち》あるのみで、その小径も、夏になると草が覆い隠し、しかもその草むらに蝮《まむし》が昼寝をしており、枝の上には猿が遊んでいて行人に悪戯《いたずら》をしかける。案内人なくては到底、入り難き
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