お雪ちゃんにとってはよい機会でありました。
 笠を阿弥陀にして、ふり仰いでいるその人は、いやでもその面影《おもかげ》の全面を上へ向けなければなりません。そこへ、なおこちらに幸いすることには、月光が上から照らしつけてある上に、その当人の腰にさしていた提灯というものが、向うから推輓《すいばん》するように、ほとんど隈なく輪郭を照らしてくれました。
 その時に、お雪は、二重三重の意外に見舞われて、胸を轟《とどろ》かすことが加わってしまいました。
 笠のうちなる人の面影は、今まで全く見なかった人です。ここに冬籠りをして熟しきっている同宿の人たちのうちの一人でないことは勿論《もちろん》――先般来、出入りして、相当の波瀾と印象とを残して行った二三の人たちの姿でもありません。
 全く別な、全く新しい人――一眼見てまぎろう方なき、あざやかな印象――お雪が、一も無く二も無く感じてしまったことは、その人の面影を、どうしても女とよりほかは見ることができなかったからです。
 男の眼では間違いということもあろうけれど、女が女を見る眼には間違いないと、お雪は直覚的に信じてしまったのです。
 さあ――この白骨の温泉の今までの冬籠りには、女というものは自分のほかには絶対になかったはず。
 呼ぼうということも、来るということも、誰人のおくびにも出てはいなかった。たとえ、呼んでも、招いても、自分たちのように夏の時分から来ているならば格別、今のこの際に、女の身でここへ来ること(冒険の男でさえも)は、全く不可能であると信ぜられていたのです。
 この人が女ならば、いつ、どうして、誰が連れて来た。もっと以前に連れて来て、誰か隠して置いたのか――それは、どちらにしても容易ならぬ事だ。
 と、お雪の胸が兢々《きょうきょう》としました。
 しかし、その場の光景はその瞬間だけで、下なる人は直ちに面《かお》を伏せて、軽く足許に落ちた数珠を掻《か》き寄せると同時に、右手は手桶にかけて、難なく水と姿のすべてとを家の中に運んでしまいました。
 幻怪にもせよ、恐怖にもせよ、幻怪でも恐怖でもなく、ただ人あって水を汲みに出たという平凡極まる光景であったにせよ、眼前のその事は、それでひとまず解決しましたが、それと同時に、背後の圧迫のゆるやかなことを感ぜずにはおられません。

         四十七

 その夜の寝物語に――といっても、襖一重の明け開いた隔ての間で、竜之助とお雪とが、こんな話をしました。話はむしろ、お雪の方から持ちかけたものです。
「ねえ、先生、いつまでもこうして、白骨にばかりもおられませんわね」
「でも、こんなところで、一生暮してもいいと、お前は言ったではないかね」
「一時はそう思いましたけれども、ここは、わたしたちだけの天地ではありませんもの」
「我々だけの天地というものが、別に造られてあるはずはないのだ」
「それはそうですけれども、温泉だけに、人の出入りが絶えませんわね、誰も来ないはずの冬の白骨へ、やっぱり、思いがけなく、いろいろの人が出たり入ったりするものだから、わたしは危なっかしくて、このごろはほんとうに落着かなくなりました」
「といって、冬が終るまでは、動きが取れないことになっているではないかね」
「いいえ――あんな見知らぬ人が、今晩も入って来るくらいだから、出ようとすれば、出られない限りもないと思いますわ」
「そうか知ら、そこで、お雪ちゃん、お前も、もう白骨にあきがきて、家へ帰りたくなったのか」
「いいえ、そういうわけではありませんけれど、ここがなんとなく不安になりました。ねえ、先生、今のうちに白骨を立ってしまいましょうか」
「そうして、どこへ行こうというの」
「それはね、一つ、わたしに考えがありますのよ」
「その考えというのは?」
「まあ、お聞き下さい。わたしは少しでも、ここへ来た甲斐があって、第一、先生のお目のだいぶよろしくなったとおっしゃるのを喜ばずにはおられません。それに、わたくし自らも、ここへ来たために、いろいろの学問を致しました、ずいぶん、ためになりました。ですから、白骨へ来たことは全く後悔にはなりません。けれども、もうこのぐらいが、切上げ時じゃないかと思います。今までも、思いがけない人のごたごたがありましたけれど、ともかくも、おたがいに無事で今日まで参りました、この上いい気になって逗留していると、ためにならないことが起るような気がしてなりません。ですから、別のところで、あなたの充分御養生になれるようなところを選んで、それはここよりは、一層静かで、人事のごたごたのないところへ行って、春まで暮してみた方がよいのではないかと、そんな気がしてなりません」
「なるほど……それも一理のある考え方だが、といって、ここを立って、別にいいところがありますか」
「それはあ
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