しょう。それも、冬がようやく迫って来るほど、昼よりも宵、宵よりも、この深夜の月の澄んだ時ほど美しさが増して行く。
 今は、どうでしょう、人去り、時更けて、この骨まで凍る白骨谷のつめたさ。
 この美しい、つめたさを、自分ひとりだけがながめつくす特権がうれしい。冬籠《ふゆごも》りをする人だけに、この広寒宮《こうかんきゅう》のながめが許されるのに、お気の毒なのは、せっかく、許された特権を抛棄《ほうき》して眠っている人たち。
 起して見せてあげたいが、そうしない方がよい。慾ばりのようだが、これだけは、わたし一人占めにして、誰にも見せないことにしておきましょう。
 先日も、このことで、弁信さんへの手紙を書いたことでした。
 その手紙の中に、白骨谷の深夜の景色に拙い描写を試みた後、こんなことを書き伝えた覚えがあります、
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「弁信さん――
風景というものは、人間に見せるために出来ているものではないということが、このごろになって、やっと、わたしにわかってきました。
今まで、私は、美しい花だの、キレイな鳥だの、屏風《びょうぶ》を立てたような山や、波のように音を立てて流れる川、みんな、自然――が人間をなぐさめてくれるために出来ているものとばかり思って、それとお友達になったつもりで慰められて来ましたが、このごろになって、ようやく、本当のよい景色は、人間のために作られているのではない、ということがよくわかりました。
冬になっての、夜更けての、白骨谷の景色というものの、美しさを、弁信さんにひとめ見せてあげたら、きっと、わたしの言うことをわかって下さいます。
毎年、夏から秋にかけましては、白骨へ入湯に来るお客もたくさんございますけれども、冬の白骨を知っている人はないのです。知っている人があっても、冬の夜更けての白骨谷に、こうまであこがれているのは、古来――(ずいぶん大きな言い方ですけれども御免下さい)わたしひとりだけなんでしょう。
冬が深くなり、人が絶えてくるほど、景色はよくなって参ります。
まして――これから上の乗鞍ヶ岳や、穂高ヶ岳や、槍、白馬、越中の剣山の上あたりの今夜の月の景色は、どんなでしょう。それはただ想いやるばかりで見ることはできません。わたくしに見ることが許されないだけではなく、人間というものには、誰にも許されないところに、いよいよ本当の美しい景色が現わされてあるに相違ありません。
わたくしたちが住んでいる、地上にさえその通りですから、あの天上のお月様――とお星様の世界には、どのくらい、美しいところがあるか、それはもう想像も及ばないことでございます。地上にも、天上にも、わたくしたちには見つくせない景色が、いよいよ隠されていることを思うと、自分ができるだけそれを探りたい喜びを感ずると共に、人間の力では及びもないことも考えさせられて、泣きたくなることもございます。
ずいぶん、夢を見ます、高いところへ登った夢も、見なれないものを見せられた夢も――夕べの炉辺で聞いた山家話が、その晩はきっと、ぼかされた絵のようになって夢に現われるんですもの……夢を見ることもまた大きな楽しみの一つでございます。
それから、
こうして、毎日、どこにいるか知れない弁信さんに、届くはずのない手紙ばかり書いて、自分ひとりを慰めているうちに、不思議なことには、毎日毎日、なんだか、弁信さんが、こちらへ向いて少しずつ近づいて来るのじゃないかと思われて――
ほんとうに弁信さん――
あなたのような勘のいい方は、わたしがここに、こんなに考えていることを気づいて、こちらへ向けて出かけておいでになるのかも知れません。近いうちに、弁信さんがここへ来るような気がしてなりませんもの――
それは全く空想に違いありません。いくらなんだって、この交通の杜絶《とぜつ》している白骨の奥へ、土地の案内者か、冒険者なら格別、弁信さんみたような、きゃしゃな人が、来られようとは思いませんが、日々日々《にちにちにちにち》に、そんな心持がして、これを書いている一行毎に、弁信さんの姿が、わたしに近づいて来る心持を、どうすることもできません。
事実としては、そんなことはあろうはずはありませんけれど、もし、万に一つ、そんなことがあり得るとしたら、弁信さん、あなた一人だけでなく、茂ちゃんも連れて来て下さい。
それは来るなといっても、あの子は弁信さんについて来るにきまっているでしょうが、忘れないで下さい――
茂ちゃんも、弁信さんの傍へ置かないとあぶなくてなりません――」
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         四十六

 お雪が、ひとりこうして月夜の大観に酔うている時、宿の軒下から、一つの提灯《ちょうちん》が、さまよい出したのを見て、ぞっとしました。
 時は、この通りの月夜ですから、ちょっと、そこらへ
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