出るには明りはいりません。ところはこの場合ですから、遠方より行きつ戻りつすべき場合でもありません。
これが闇の夜ならばとにかく、皎々《こうこう》たる満眼の月夜であるだけに、お雪は物凄いと思いました。
誰だろう、今時分、何しに……と疑いながら幻想をくずし、眼をみはって、その人を見たしかめようとしたが、三階の高さから朦朧《もうろう》としてわからず、かえって、人が無くして提灯のみが浮き出して歩き出したようです。人魂《ひとだま》かなんぞのように、ふらふらと宙に迷って、提灯だけが月夜に浮き出したもののようです。
それで、お雪ちゃんは、ほとんど身の毛をよだてた[#「よだてた」に傍点]ものです。
一旦、軒下から、ふらふらとさまよい出した提灯は、軒をめぐって消えてしまいましたけれど、しばらくして、また現われ、小径《こみち》をたどって、あちらに、ついどおし道の方へとさまよい行くもののようです。
幻想を恐怖に破られながらお雪は、その提灯から眼をはなすわけにはゆきません。
その時、不意に後ろから音もなく、自分の肩の上に落ちて来たものがあります。
「あっ!」
と振返れば、和《やわ》らかに自分の肩の上に置かれた人の手。
「まあ、先生」
お雪の肩に後ろから手を置いたのは、机竜之助でありました。
肩に手を置かれるまで、どうして、どちらから歩み寄って来られたか、それがわかりません。ただ、不意に襲うて来た手の主が、さる人であったから、ようやく落着きました。そうでなければ、いつぞや、仏頂寺のために、目かくしをされた時よりも、もっと怖れたかも知れません。
それでも、息がハズんで、
「ちっとも存じませんでした」
返事をせずに竜之助の、お雪の肩に置いた手はようやく深くなって胸のあたりに襲うて来ると共に、その胸が自分の背を圧迫して来るのを感じます。
お雪は、いったん、落ちついたが、それからまた胸の轟《とどろ》くのをとどめることができません。
それは、どうもなんとなくこの人の挙動に、圧迫を感じるのと、ちょっと振返って見た途端に、右の手を自分の肩にかけ、左の手には刀を提げていたからです。
それは、ちょっと合点《がてん》のゆかない呼吸でありました。
それでも、圧迫をのがれようという気にもなりません。
「なんて、いい月夜なんでしょう」
と言いました。
「寒いことはない?」
と、深く胸に腕をおろしながら、竜之助が言いました。
「あんまり、いい景色だものですから、寒いことも忘れてしまいました」
「そうかなあ、そんなによい景色ですか」
「ええ、それはそれは」
「景色はいいが、今晩はなんだか宿が物さわがしいではないか」
「いいえ……」
お雪が解《げ》せないと思いました。事実、今晩の宿といって特にさわがしいことはありはしない。自分の気のついている限りでは、いつもの通りの冬籠《ふゆごも》りの宿に何の出入りもない、空気の動揺もない、と信じていましたのに、この人はこんなことを言う。そこで、
「いいえ、騒がしいことは少しもございません、いつもの通り、ほんとに静かな山間《やまあい》でございます、静かになればなるほど、夜の景色が何とも言われません」
「でも、なんとなく物騒がしい晩だ」
「いいえ、やっぱり静かな晩でございますわ」
「そうかなあ」
その時、竜之助の深くさし込んだ左の腕が、お雪の乳房の首まで届きました。お雪でなければ、まあ、くすぐったいと、はしゃいで振りもぎるところでしょう。お雪は、最初から圧迫的な空気を、如何《いかん》ともすることができないで、ほとんど、二人が重なり合って立ちながら、夜の景色に見とれているような形です。亜字の欄《てすり》に立ちながら二人は、じっと身動きもしないでいたが、お雪の動悸が、高ぶってゆくことは眼に見えるようです。それでも逃れようとはもがきません――もう、わかりきっているのでしょう。
「物騒がしい晩だ、今晩ぐらい、物騒がしい晩はない」
と、竜之助の言うことはやはり圧迫的で、且つ独断に偏しています。
「いいえ……ちっとも騒がしいことは」
お雪は、竜之助の独断を打消そうとしたが、自分の胸の騒ぎを打消すことはできないと見えて、言葉半ばで、自分の口の中が乾きました。
「ああ、やっぱり物騒がしい、なんとなく落ちつかぬ空気だ、今晩は誰か、この白骨谷の空気を乱しに来た奴がある……」
「え……」
「誰か、この天地へ、外から入り込んだ奴がある、それが、この白骨谷の空気をかき廻して、それでこんなに騒がしい」
と竜之助が言いました。お雪は、身体《からだ》と乳房の堪え難い圧迫を覚えてきました。
「いいえ、そんなことは、この静かな晩に……」
途切れ途切れに言う、お雪の口がかわいてゆくのを、やはり、どうすることもできないらしい。
「静かな晩でございますが、ね
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