、鬣《たてがみ》を振い立つように雀躍《こおどり》しました。
 絵になるどころか、馬は天下の画材である。ことに放牧の馬は、和漢古来、名匠の全力を傾けて悔いざる画題だ。
 白雲は、天馬のように心が躍る。そこで、白雲は、馬を描いた古今の名画について、気焔を揚げてみたかったのだが、この相手が相手だと手綱《たづな》をひかえて、
「それはいいことを聞きました、相馬は馬の名所でしたね。なお、あの附近に、名物、そのほかに、たとえば、古代の名建築とか、名画を所持している人とか、名彫刻の保存家とかいうようなところはありませんか」
「そうですね、なんにしても東北の北陬《ほくすう》ですから、さのみ名所、名物といってはござらん、まあ、陸前の松島まで参らなければ」
「ははあ、松島ですか」
「松島まで行きますと、かなり天下に向って誇るべき名所も、名物もござるというものです」
「それは、それに違いない」
「八百八島――あれは天然がこしらえた名物でござるが、瑞巌寺《ずいがんじ》の建築、政宗公の木像、それから五大堂――観瀾亭と行って、そうそう、あすこに、すばらしい狩野家がござることを御承知でござろうな」
「すばらしい狩野家とは?」
「瑞巌寺には、永徳と、山楽がありますね」
「あ、そうだ、そうだ」
 その時に、白雲がまた興を呼び起して、膝を打ちました。
 そうだ、そうだ、松島には、伊達政宗が太閤からもらい受けたという観瀾亭がある。そこには、すばらしい山楽の壁画があるということは、兼ねて聞いている。
 畿内をほかにして、あれだけの狩野は他に無い――ある友人は、それを見て来て、あれは山楽というより、永徳と言いたい、いや、自分は永徳であることを確信すると、告げたことがある。松島まで行こう――その永徳を見るために。

 永徳は画壇の英雄である。
 政治家に秀吉があって、画界に永徳がある。
 時代に桃山があって、やはり画家に永徳がある。
 画壇においての永徳は、秀吉に譲らざる英雄である。
 ということを、白雲は日頃念頭に置いている。相馬には奔馬があり、松島には永徳がある――恵まれたるわが天地なる哉《かな》――行かずしてはおられぬ、相馬より松島まで……
 空《くう》を往く天馬の手綱を控えることができないらしい。

         四十五

 白骨の温泉の一室で、池田良斎と、北原賢次とが、「真澄《ますみ》遊覧記」というのを校訂していると、
「北原さん、お客様でございます」
「え!」
 北原は愕然として筆を措《お》きました。
「お客様がお着きになりまして、今、おすすぎをなすっていらっしゃいます」
「誰ですか」
「尾張の名古屋の紅売《べにう》りだとおっしゃいました」
「来た、来た! 先生、伝書鳩の効能がかくも的確とは予想外でした……お雪さん、どうも有難う、いま行きます」
「どう致しまして」
 室の外で北原に取次だけをして、姿を見せないで行ってしまったのはお雪ちゃんです。
 北原賢次は、良斎を残して、とつかわと出て行ったが、暫くして、北原はその名古屋から来た紅売りというのを伴うて、浴槽の方へ行った様子。浴槽の中でも、いつもとは違って、極めてしめやかに、話し込んでいると見えて、時々、湯の音がするだけのものでした。
 湯を出てから、再び、以前の校訂室へつれて来るかと思うと、そうではなく、別に己《おの》れの室へ連れて来て、そこで、また、極めてしめやかな話しぶりです。
 夜になると、例によって、炉辺閑話が賑わい出してきましたけれど、北原は面《かお》を出さないくらいですから、今日訪ねて来たという新来の珍客、名古屋の紅売りというのを、つれ出して、炉辺閑話に新しい興を添えようとするでもありません。
 こんなことは、すこぶる違例で、それでも少なくとも池田良斎あたりには引合わしたろうと思われるが、良斎もすまし込んでいるものだから、紅売りという者の正体がまだわかりません。
 かくて、その夜は更けて行きました。

 その夜の白骨谷は満眼の月でありました。
 三階の亜字の欄《てすり》に立って、月にかがやく白骨谷を飽かず見入っているのはお雪ちゃんです。人は全く寝しずまって、物の気というものはありません。
 お雪は、つくづくこれを美しいながめだと思います。
 美しいだけでは言い足りないと思います。なんだか、悲しいような、奥深いような、言うに言われぬ心持で、白骨谷の深夜を、ひとり愛して、やみ難いことがしばしばあるのであります。
 この地上には、人間に隠されたところの秘境が、いくらもあるということを、このごろほどしみじみ感じさせられたことはありません。
 多くの人は、白骨谷は人間の冬来るべきところではないと言いました。土地の主さえも、冬は逃れて里へ帰るところだと言いました。
 それだのに、この美しい景色は、どうで
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