あ、いい気持だ」
こう言いながら、白雲は松林の間を、縦横に歩いて行くと、ふと、人の声がする。一町とは隔たるまいところで……やはりこの松林の中で、松の木の下で、極めて平凡な人間の声が起るのを聞きました。
海も、海岸も、松林も、ここは自分ひとりの専有と信じていたのに、人がいる。極めて、あたりまえの人間の声がする。その声は尉《じょう》と姥《うば》との声でもなく、寿老神が呼びかけたのでもない、あまりにあたりまえ過ぎる人間の声でありましたから、不意であったとはいえ、白雲を驚かすには足りないで、かえって、それに拍子抜けの思いをさせました。
「なあんだ、人がいたのか」
それは軽蔑でもないし、憤怒でもない。極めて軽い意味の失望の程度のものでありました。
それは何を話しているか知れないが、向うの松の木蔭で、人が話し合っている。話し合っているから一人でないことは確かだが、それでも二人以上ではありそうにない。
おや、松の間から海が見えている。
二人だ。二人の前には、何か道具みたようなものが投げ出してあるな!
あれだ、あの黒船が来る前に、黒船の出現によって、トンと存在を忘却してしまっていたが、あの以前に海岸で果し合いを試みていた二人の者――
おお、おお、その生死のほども確めることを忘却していたのだが、それだ、その二人がここにこうしているのだ。
なんの――決闘でも果し合いでもあろうことか、近づいて見れば、眼の前にころがっている機械、道具類が物を言うではないか。
間棹《けんざお》、麻縄、鉄鎖、望遠鏡附の象限儀《しょうげんぎ》、円盤、といったようなものが、草の間に散乱しているのを見るがいい。
測量だ、測量だ、測量をしていたのだ。それを遠目で見て、一概に決闘と早呑込みをしてしまったのは、度外れた滑稽沙汰であった。
しかし、まあ、ちょうど、何かしら人懐かしい折柄、近く寄って、話敵《はなしがたき》に取ってみるのも一興。
「やあ、こんにちは、御苦労さまです」
田山が近づいて愛想をいうと、先方も、
「いや、どうも……」
という返事。
「測量ですか」
「はい」
「拙者は、あなた方がさいぜん、海岸で測量しておいでになるところを遠方から見て、これは、てっきり果し合いだと勘違いを致しましたよ、いやはや、笑止千万」
と言いますと、先方は、さほど興にも乗らないで、
「左様でございましたか、それはどうも」
立っている田山に、まあお坐りなさいとも言わない。
白雲も、ちょっとバツが悪い思いをしている。といって、なにも先方が別段傲慢な態度でこちらを冷淡に扱っているというわけでもないし、また質朴そのものが、挨拶の表示を十分円満にさせないというわけでもないし……そう重い身分の者ではなかろうが、一人はたしかに士分の者、一人もまたそれに準ずるもので、人夫や人足の類《たぐい》でないことはわかっているのに、いかにも捌《さば》けないところがあるようだ。こちらは磊落《らいらく》に出ているのに、先方は妙に警戒性が見え過ぎると感じました。
はてな、自分では磊落のつもりでも、自分の風采というやつが、この珍客に鬼胎《きたい》を持たせたのだな。そうだろう、無理もないことだ。ただでさえ、あんまりものやさしくは出来ていない風采骨柄のところへ、月代《さかやき》も久しく当らず、この数日、湯につからないのを、鹿島の浦の海風で曝《さら》しにかけたのだから、初対面の人の警戒性を、かなりに刺戟することは無理もあるまい。人間並みの人に言い寄ろうには、ただ人間並みの戸籍を示してかからぬことには、この際、自分というものの、見かけほどには危険性を帯びている者でないということの証明にはならないと考えたのでしょう……白雲も、あれで郷《ごう》に入《い》ることに慣れているから、その辺は甚《はなは》だ鈍感ではなく、ぶっきらぼうに、お世辞ともつかず、自己釈明ともつかず言いました、
「測量は、どこからどこまでなさるのですか、地上を測って行くという仕事には、無限の面白味がありましょうね……拙者は足利の田山白雲という田舎絵師ですが」
と、彼は大抵の場合にするように、あけすけに自分の名を名乗ってしまいました。
拙者は木挽町《こびきちょう》の狩野《かのう》でござるとか、文晁《ぶんちょう》の高弟で、崋山の友人で候とか、コケおどしを試むる必要はなく、大抵の場合、足利の田舎絵師田山白雲と、素性をブチまけてかかるのがこの人の習いであった。これは一つは、どう見ても画家と受取られない見てくれ[#「見てくれ」に傍点]。剣客と見られたり、脱走と見られたり、事毎に面倒がかかり易《やす》いために、まず絵師だといってしまえば、その種類の大部分が消滅するの便宜があるからだ。それでもなお、不審がるものには、遠慮なく紙と筆とを以て、お手のうちを眼前に
前へ
次へ
全129ページ中81ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング