次に、その噸数《トンすう》を計量し、次に乗組の人員、その国籍、機関の種類、出立点、行先、速力等を計算推量して、ついにほぼあやまりなく一つの結論に到達するに相達ない。
 白雲では、そういう数字と、計算には頭が働き得られない。その直覚と、感激から来るところの結論は到底――
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この船のよるてふことを束《つか》の間《ま》も
 忘れぬは世の宝なりけり
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というものに似た迄に帰着する。なあに、毛唐め! なる程機械力の優秀に於ては一歩を譲るかも知れないが、いよいよの時は「わが檣柱を倒して虜船に上る」までの事だ!
 こうして、黒船を見送っているうちに、黒船の大きさも豆のようになる。やがて、波間に消えてしまう、そうすると海の波の大きさが浮き上って来る。見るべき焦点を失った時に、茫洋たる瞳がよみがえる――
 あ、そうだ、黒船も黒船だが、さいぜんのあの人影は、あの決闘は、あの果し合いは――その結末はどうなったのだ。黒船であろうとも、白船であろうとも、船が海を往くことは尋常中の尋常である。それを、うっかりと見とれていたこっちが田舎者《いなかもの》! それよりも、たとえ豆のような人影にしろ、人命二つの浮き沈みの方が遥かに大事であった。
 さあ、両個の運命は、どうなった。
 白雲は、いそがわしく、眼を転じたが、幸か不幸か、さいぜんまで見えた両個の人影の二つとも見えない。渺茫《びょうぼう》として人煙を絶することは陸も海も同じようなる鹿島洋《かしまなだ》。
 もしや、両虎共に傷ついて、砂に倒れて万事|了《おわ》ったかと地を低くながめやったが、その屍体らしい物は見当らない。
 では、黒船に見とれている間に、案の如く、両虎は共に傷ついて砂浜に倒れたところを、無雑作に波が来て、さらって行ってしまったのだろう――あとかたもない。
 田山白雲は手の中の珠でも取られたように、なんとなく心に一味の哀愁を覚えつつ、さて、今は全く、ながめやるべき焦点を失い、最初の茫洋たる豪興を回復するまでの間、無意識に砂浜を歩み――足は本能的に南の方、黒船の走って行った方向、決闘の行われていたと同方向に向って、そぞろ歩きの体《てい》でありましたが、やがて砂浜を右にさまようて、またも松原続きの中に入りました。
 海を避けて林に入ったのではなく、この林を抜けて、また彼方に渺茫たる海を見ようとして進み入ったものであります。
 ところが、この松林が意外に深く、これに入った白雲の足どりが、存外要領を得ていなかったものだから、松林を行きつ戻りつ、嘯《うそぶ》く人のように見えました。

         四十三

 海を見て杜《もり》へ入ると、気分が全く転換する。
 雑林地帯と違って、下萌えのない芝原に、スクスクと生い立った松の大幹の梢が、豪宕《ごうとう》な海風と相接する音を聞くと、言わん方なき爽快と、閑雅にひたされる。海は豪宕のうちに無限というものの哀愁を教える。山林は身神を放遊して、人に閑雅を与える。
 太古、この松林には夥《おびただ》しい鹿が、野生群遊していたという。
 大和の奈良の春日山の神鹿の祖、ここに数千の野生の、しかも柔順な、その頭には雄健なる角をいただいて、その衣裳にはなだらかな模様を有し、その眼には豊富なるうるみを持った神苑動物の野生的群遊を、その豪宕な海と、閑雅なる松林の間に想像してみると、これも、すばらしい画題だ! その群鹿の中に取囲まれて、人と獣とが全く友となって一味になって、悠遊寛歩する前代人の快感を想像する。
 そうだ、「春日以前の神鹿」といったような画題で、また一つ、この群生動物を中心に一大画幅をつくってみようとの、画興が油然《ゆうぜん》として起るのを禁ずることができない。
 画題は有り余る! 彼はかく感ずる瞬間の自分というものを、限りなく果報に感じ出してきた。おれも貧乏に於てはかなり人後に落ちないが、斯様《かよう》な富の豊富無尽蔵を感じ得る頭脳だけは、無類の幸福者といわずばなるまい。
 人は技の拙なるに患《わずら》いする、材の取り難きに苦心する、もしそれ画題の陳腐を厭《いと》うての筆端の新鮮なるを希《ねが》うに至っては、万人の画家が、ひとしく欲しながら、ついに粉本《ふんぽん》を出でることができず、前人の足跡より脱することができないのに、こうして、足一歩――ではないが、十里百里と興に馴れて自然そのものに直接に没入して行きさえすれば、自然は惜気もなく、その無尽蔵を開いて、永遠の画題を我等に与うるのだ。
「おれは仕合せ者だ!」
 白雲は、こういう瞬間には、かく自分の身の恵まれたることの讃歌を、誰はばからず絶叫するの稚気を有している。
 この稚気が存する間、妻は病床に臥すとも、子は飢えに泣くとも、存外、のんき千万で生きて行かれる!
「あ
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