、空を行く雲と、梢に通う風の音ばかりと心得ているところに、海岸の砂浜に、ほとんど豆の動くが如き黒一点を認めて、白雲は直ちに、
「人だな……人間に紛れもない」
と、かえって人間の存在することに、驚異の眼をみはりました。
暫くは静止して、その黒点を注視していましたが、その動いている黒点が、離れたり附いたりするうちに、たしかに二箇は存在することを確認しました。
なお見ているうちに、極めて少しずつではあるが、右の二つの黒点が、こちらに向って近づいて来るのだということを、見損ずるわけにはゆきません。
「はて、漁師かな」
漁師にしては舟が無い、と見ているうちに、その二つの影がようやく、はっきりする。二つの人影が、棒を以て渡り合っている――と白雲はそう思いました。多分、棒だろうと思われる、そうでなければ然《しか》るべき得物《えもの》――武器でなければなるまい。それを持った二人が、附いたり離れたり、ある時は飛び違ったり、走《は》せ出したり、また飛び戻ったりする。なお注視するところによれば、その二人は、いずれも武装している、武装でなければ旅装である。足は相当にかためられていることは争われない。
かりにこの辺に、数戸の漁師があって、それが朝がかりの仕事としては、念の入った身がまえである。
田山白雲は、海に酔うた眼を以て、暫くその二つの人影に、注意を払わずにはおられなくなりました。
やや暫く注視を怠らないでいるうちに、附いては離れ、或いは飛び違い、走せ戻り、時とすると、一町二町を一人が走り移って、また走り戻ることもある。そうして、両の手には、しかるべき得物を離すことをしない。
その体《てい》を見て白雲の興味が、いよいよ異常を加えるようになりました。
決闘だ――たしかに、そう断定を下すより持って行き場がない。
そうだ、あの二つの人影の間に、何か意趣を含むところのものがあって、相しめし合わせて、全く人目を避けたこの海岸に来て、生命を端的の輸贏《ゆえい》にかけて、恩怨を決死の格闘に置くの約束が果されようとしているのだ。
それも、普通の田夫漁人の、なぐり合いではなく、相当の心得ある士分のやり口だと直覚しないわけにはゆきません。香取鹿島は名にし負う、武神の地――特にこの海岸を選んで、隔意なしの武道の角技――そうして、生も死も、芸術の上にかけて、残るところの恨みをとどめざる契約。必ずや二人ともに、腕に覚えあり余るつわもの[#「つわもの」に傍点]には相違あるまい――そうだとすれば、時にとってのよい見物《みもの》、場合によっては、仲裁の役に廻り、あたら両虎を傷つけないようの老婆心もあってよかろう――ともかく、行って見よう。しかし距離が――あれだけの距離、目分量で、十町余りはたしかである。
これから、息をも切らさずに飛んで行っても、走《は》せつけた時分には、もう両虎ともに傷ついて起つ能《あた》わざることになっているか、一方が一方を処分し終った時になっている――そこで、あえて急ぐ必要はあるとしても、急いだ効果はないものとして、件《くだん》の小丘を、おもむろに下ろうとしていて、ふと首をめぐらした時、計らずも今度は、海上に於て異様なる黒一点を認めました。
それは、海岸の陸に於て、目下見つつあった二つの黒影とは、比較を絶するほどに大きな黒影が、波を切って南に向って行くのであります。
「黒船だ!」
白雲が眦《まなじり》を決してその黒船を睨《にら》んだ瞬間、ただいま決闘――と認定せる二つの人影のことは全く忘れ去りました。
「うむ、黒船だ」
こんな大きな海上を走る存在物を、多分、白雲は今までに見なかったであろう。檣《マスト》を立て、煙を吐いて行く黒船の雄姿は、田山の眼と、心とを、両個《ふたつ》の人影から奪うに充分でありました。
黒船――その名が暗示するところは、日本のものではない、日本には海上を走るもので、これだけの存在物は目下あり得ない、と白雲の頭はなんとなく激昂する。
鹿島洋を横断する不敵な怪物!
荒海を征服してわがもの顔に行く、その雄姿を、この大洋の上に見せられると、白雲も、外夷を軽蔑する頭を以て、充分の敵愾心《てきがいしん》を呼び起されつつも、なおその姿の懸絶に動かされないわけにはゆかない。どう贔屓目《ひいきめ》に見ようとしても、黒船の雄姿に比ぶる和船は、巨人と侏儒《こびと》との相違である。いかに軽蔑しようとしても、眼前を圧する輪郭は争われない。
田山白雲は、一種の感激と、いらだたしさを感じて、黒船の姿に見とれ、決闘の場に赴くべく、丘を下らんとした砂丘を下らずして、しばらく立ち尽すのやむを得ざるに至りました。
駒井甚三郎ならば、この徒《いたず》らな感激と、敵愾と、いらだたしさから超越して、まずこの黒船の型が近代の何式によるかを観察し、
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