身をひそめていたやつが、空腹に堪え兼ねて、人里へうろつき出したところを、引捉えられてこの運命ということらしい。
物置へ抛り込まれてなお、マドロスが盛んに泣き叫んでいるのを、こちらの室では、もゆる子と茂太郎とが聞きながら、痛いような、くすぐったいような、バチだから仕方がないというような、でもかわいそうねというような、殿様に頼んで縄を解いて上げましょうかというような、いいえ、それにしてもまだ早いわ、もう少し泣かしておきましょうよというような表情で、面《かお》を見合わせて語り合っている。
ところがまもなく、米飯と、野菜と、魚肉とを、一つの皿に盛り上げたのを持って、物置へ入って行く金椎《キンツイ》を見る。
そうして、両手を縛られて、絶泣しているマドロスの面前へそれを持って行って、箸でいちいちハサんで、マドロスの口へあてがっているところの金椎を見る。
親鳥から餌を与えられるようにして、金椎から箸で突き出される食物を、雛が食べさせてもらうように、パクついているマドロスを見る。
その食物をパクつく間のマドロスは号泣していないのを見る。食物をパクつく間にしゃくり上げるマドロスを見る。その瞬間に、眼からポロポロと落ちる水滴は、その以後と区別した嬉し涙というものの一滴だろうとは受取れる。
こうして見ると、泣くことは泣くが、食うことも食う。見るまに大きな一皿を平げて、なお物欲しそうな色が残る。泣くことと、食うことは別なのであるように見える。泣くべき時には、泣けるだけを泣き、食うべき時には、食うだけを食うという分業組織が、この男にはかなり規律正しく使い分けられているように見える。
日本人の普通に見るように、泣くべきほどの事があるから食事も進まないの、胸が塞がって飲むものも飲まれないのというような、物と心との混線作用はないらしい。
だが、この際は、金椎も食うだけ食わせることをしないのが、かえって合理的だと思ったのでしょう。右の一皿だけを提供し終ると、あとは節制を与えて物質の補充を追加しないのが、この際相当の処置と思ったのでしょう。
そこで、食うことがこれ以上許されないとすれば、これからまた号泣の中断を続けるの段取りとならなければならぬ。
果して、金椎が立去ったあとで、哀号の声がしきりに起りました。
その哀号を遠音に聞きながら、駒井甚三郎は人間の本能性の底の知れない不検束というものを、両様に感じないわけにはゆきません。
御当人はああして哀号することによって、気分が改悔の誠意を見せているつもりか知らん、同時に同情の念を呼び起そうとつとめているのか知らん、見ている周囲にとっては、いよいよ滑稽と、侮蔑とがあるのみだ。
それにつけても、一人というものの存在が、存在その時には意識に上らなかったほどの影が、立退いてみると、無用の用の大きさの予想外なのに驚かされることがある。
田山白雲がおりさえすれば、ただ存在するその事だけで、これら一切の、悲喜劇は起らなかったのだ。田山が存在することによって、マドロスの放縦が芽を出すことができない。よし芽が出ても、伸びることができないのだ。人間には、ただ人間としての力の存在のほかに、その雰囲気の力がある――というようなことを、駒井が痛感せずにはおられないのです。
のみならず、白雲が存在することによって、マドロスの不検束に強圧が加わり、その放縦の芽が伸びる力を失うのみならず、このふしだらの天才の有する、よい方の能力をも充分と使用することができるのだ。
これが今は二つながら駄目だ――せっかく、企てた炭坑の探検も、これによって重大な支障となる。なおまた、このマドロスの処罰と、改造とのために、あたら時間と、脳力とを費さずばなるまい――二重三重の物心内外の不経済。
主として、駒井はそれを今、人物経済上の利害から考えてみて、将来、自分が船によって一自由国に向う門出の重要なる参考でなければならないと考えました。
四十二
鹿島洋《かしまなだ》の波をうつさんとして、そこに踏み止まった田山白雲は、波濤洶涌《はとうきょうよう》の間に、半神半武の古英雄を想うて、帰ることを忘れました。
今日しも、朝まだきより、この海岸を東へ向って、行けども行けども、人煙を絶するのところに、境涯を忘れ、やがて、松林――古《いにし》えは夥《おびただ》しく鹿を棲《す》まわせて、奈良の春日の神鹿の祖はここから出でたという――その松林の間に打入って、放神悠々、写生の筆をとっていました。
やがて写生の筆を休めて、また海に向って歩み、ふと、はまなすの生い茂る、一団の砂丘、その上にのぼって、海に向って一心に弓なりの浜を見ていると、ほとんど、視野の半ばのところに、今日は珍しくも動いているものを認めました。動いているものは、海の波と
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