揄《やゆ》を試むるところであろうけれど、駒井は、それをもてあまして、ああ、昨夜の出来事から、ぶり返した、せっかく、常識にかえりかけた女の調子を狂わせてしまった……不快に堪えない心が募ってきたと見え、
「お前の考えは無茶だ、まあ、深く考えないで、静かにしていたまえ」
こう言って、自分の座敷へ帰って来ました。
午後になって、雨がはれたものだから、駒井は、造船所の方へ見廻ってみると、みな、威勢よく働いて、仕事はめざましいばかり進んでいる。
小休みの時に、駒井の周囲《まわり》によって、皆の話題は、出奔のマドロスと、その悪口とに集中する。
ここの連中も、惣出で手分けをしてマドロスの行方を探してみたのだが、無効に終ったのだ。
あの毛唐《けとう》め、存外、兇暴性と、泥棒根性とを持っていることをみんなが言う。あんなのは結局度し難い奴で、最後には大迷惑を与える奴に相違ない。海へ抛《ほう》り込むわけにもゆくまいから、所払いを食わしてしまうに限ると主張する者も出て来る。
そうして、駒井は夕方陣屋へ帰って来て見ると、庭を透《とお》して、兵部の娘の室では、娘と茂太郎とが何をか合唱しているらしい。嬉々とした声音が洩るるので、ああ、観念というものの鈍い彼等、やはり浅ましくも憐れなものだ、という感情に打たれつつ、自分の室へ足を入れました。
四十一
その翌朝、枕を上げて聞くと、もゆる子と茂太郎との嬉々とした話し声が、あの室から洩れて来て、やがて二人が合唱となって歌い出したのを聞く。
駒井は、つくづく、張合抜けのするほどに、たよりなさを感ずると共に、無恥と、無智との観念の区別がわからないものかと歎息しました。
やがて、今朝はすべてが無事に食卓を囲むことになる――すべてといううちに、田山白雲と、マドロスとは除いて、つまり昨日の食卓に、一人の兵部の娘を加えただけで食卓を囲みました。
駒井の頭脳《あたま》のうちには、いろいろの複雑な感情が往来しているのに、もゆる子と茂太郎との、わだかまりのないこと。
「殿様、キュラソーを召上りますか」
「いりません」
「今朝のかぼちゃは、たいそうおいしうございます」
「茂ちゃん、このお魚を食べてごらん、骨の無いところを」
「お嬢さん、お前、怪我をしてますね」
「ええ、少しばかり」
「どうして、怪我をしたのさ」
茂太郎は、もゆる子の手の甲に、膏薬《こうやく》のはってあったのを、お肴《さかな》を取ってくれる時に認めたものらしい。
「どうしてでもないのよ、いいからおあがりなさい」
「でも、お嬢さんの蒲団の上にも、血のついているのを、さっき、わたしは見ちまったから、変だと思ったのよ」
「御飯をいただく時に、そんなことを言うものじゃありません……」
その時、窓の外が急に、ざわめき出したのを、見やると、一群の人数が罵《ののし》りながら、何者かを擁《よう》してこのところへ入って来るのを認める。
「あれ、マドロスさんが……」
なるほど、多数の中に揉《も》まれ揉まれて来るマドロスの姿は、誰が見てもそれに相違ないが、その取扱いっぷりの荒っぽいこと。
マドロスは、高手小手にひっくくられている。それを、袋叩きにぴしぴしとひっぱたきながら、多勢で引摺って来る。
この毛唐め、図々しい毛唐、泥棒根性の毛唐、こんな奴は痛しめろ! というような声で、引摺りながら、いい気になって、ぴしぴしとひっぱたいている。
ぴしぴしとひっぱたかれる度毎に、
「御免下さい、ゴメン、ゴメン」
といって、泣き叫ぶマドロスの声を聞く。
食卓の一同は、言い合わせたように箸を置き、フォークを捨てて立ち上りました。
こうして、村人や造船所の連中に、ひっぱられて来たマドロスが、庭に引据えられて、駒井の訊問を受くるの段取りとなったのは間もないことであります。
庭に引据えられたマドロスは、なお盛んに泣いている、大声をあげて泣いている、本当の手ばなしで泣いていて手がつけられない。さすがの駒井もその醜態を見て、空しく失笑するのみでした。
駒井は、許すべしとも、許すべからずとも言わず、造船所連は一応マドロスを殿様の面前に引据えてから、窮命の意味か、禁獄のつもりか知らないけれど、そのまま、物置の中へ抛《ほう》り込んで置いて、一同は引上げてしまいました。
縛られたまま、物置の隅に投げ込まれたマドロスは、そこで、相変らず大きな声をあげて泣き叫んで、ゆるしを乞うている。ずう[#「ずう」に傍点]体に似合わない泣き虫。
引捉えて来た造船所連の告げるところによると、この泣き虫は今早朝、ある漁師の家の附近にうろついているところを、大勢してとっつかまえて、必死に抵抗するのを、ようやくのことで縄にかけて来たのだとのこと。
けだし、しかるべき山中の洞穴かなにかに、
前へ
次へ
全129ページ中77ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング