よ、薩摩の西郷が、中に立って斡旋尽力した賜物《たまもの》である。毛利父子を恭順《きょうじゅん》せしめ、三家老の首を挙げて、和平の局を結ばしめたのは、実は薩摩の西郷吉之助があって、その間《かん》に奔走周旋したればこそだ、尾張藩の功というよりも、西郷の功だ」
「うむ、一方には、そう言いたがる奴もあるだろうが、尾張藩のある者から言わせると、西郷などは眼中にない、もとより、和戦の交渉一から十まで尾張藩一箇の働きで、長州の吉川監物《きっかわけんもつ》に三カ条を提示して所決を促したのも、西郷でも何でもない、実は犬山成瀬の家老|八木雕《やぎちょう》であったのだ。近頃は薩摩の風向きがいいものだから、その薩摩を背負って立つ西郷という男が、めきめきと流行児になっているから、なんでもかでも西郷に担《かつ》ぎ込んで、彼をいい子にしてしまいたがるといって、憤慨している者もある」
「つまり、それも一方から見れば、この城に、意気と、人物がないという証拠になる。もしこの城に、会津ほどの気概があり、西郷ほどの人物がいたら、金の鯱《しゃちほこ》がまぶしくって、誰も近寄れない、それこそ天下の脅威だ」
「ところが、この城の金の鯱があんまりまぶしくない。瘠《や》せても、枯れても、徳川親藩第一の尾州家――それが、この城を築くために甘んじて犠牲の奉公をつとめた落日の豊臣家時代の加藤清正ほどの潜勢力を持合せていないことは、尾州藩のためにも、天下のためにも、幸福かも知れないのだ」
「そうさ、頼みになりそうでならない、その点は、表に屈服して、内心怖れられていた、当時の加藤清正あたりの勢力とは、比較になるものではない」
「思えば、頼みになりそうでならぬのは親類共――水戸はあのザマで、最初から徳川にとっては獅子身中《しししんちゅう》の虫といったようなものだし……紀州は、もう初期時代からしばしば宗家に対して謀叛《むほん》が伝えられているし、尾張は骨抜きになっている」
「かりに誰かが、徳川に代って天下を取った日には、ぜひとも、加藤肥後守清正の子孫をたずね出して、この名古屋城をそっくり持たせてやりたい」
 こうして南条と、五十嵐とは、城を睨《にら》みながら談論がはずんで行き、果ては自分たちの手で、天下の諸侯を配置するような口吻《こうふん》を弄《ろう》している時、少しばかり離れて石に腰をおろし、お先煙草で休んでいたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、思いきった大きなあくび[#「あくび」に傍点]を一つしました。
 そのあくびで、二人の経綸《けいりん》が興をさまし、南条が苦々しい面《かお》に軽蔑を浮べて、こちらを向き直るところを、がんりき[#「がんりき」に傍点]がまた思いきって両手を差し上げて伸びを打ち、
「先生、そんな英雄豪傑のちんぷんかんぷんは、わっしどもにゃあわからねえ。下町の方へおともがしてえもんでございますね、そうして百花《もか》でもなんでもかまわねえから、名古屋女てえやつをひとつ、拝ませてやっていただきたいもんでございます」
 それを聞いて南条が、
「は、は、は、英雄豪傑は貴様にはお歯に合うまい、熱田のおかめか、堀川のモカといったところが分相応だろう」
「え、え、その通りでございます。何でもようござんすから、早くその名古屋女のお尻の太いところをひとつ、たっぷりと見せてやっていただきたいもんでございます」
「まあ、待っていろ、女はあとでイヤというほど見せてやるから、もう少し念入りに、あの金の鯱《しゃちほこ》を見て置け、百」
「金の鯱なんざあ、さっきから、さんざっぱら眺めているんでございます、いやによく光るなあ、と思って眺めているんでございます、つぶしにしてもたいしたもんだろう、と考えながらながめているんでございますが、いくらになったところで、こちとら[#「こちとら」に傍点]の懐ろにへえるんじゃねえとも考えているんでございます、いくら金であろうと、銀であろうと、眺めるだけじゃ、げんなりするだけで、身にも、皮にも、なりっこはありませんからなあ」
「は、は、は、弱音を吹いたな、がんりき[#「がんりき」に傍点]、実はお前をここまで引張って来たのは、我々が英雄豪傑の講釈をして聞かせるためではないのだ、お前に、あの金の鯱を拝ませてやりたいばっかりに連れて来たのだ」
「そりゃ、有難いようなもんでございますが、もう金の鯱も、このくらい拝ませられりゃあ満腹なんでござんすから、そのモカの方をひとつ、見せてやっていただきてえと、こう申し上げるんでございます」
「まだまだ、貴様、そのくらいでは、あの金の鯱が睨《にら》み足りない」
「このうえ睨んだ日には目が眩《くら》んじまいますぜ、あれあの通り、朝日がキラキラとキラつきはじめました、綺麗《きれい》には綺麗だけれど、あんなのは眼のためにはよくありません、
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