ったな、困ったものだな、せっかく、鎮静しかけた病気が、またきざし出して、時と所とを嫌わず飛び出すあの娘の病気、今夜という今夜、またきざしたのだ。しかし、自分がここにめぐり合わせたのは勿怪《もっけ》の幸い。
それとじゅうぶん合点《がてん》が行ったから、駒井甚三郎は、むしろ網を張るような心持で、両手をひろげて待っていると果して、たあいもなくその網にひっかかってしまいました。
「まあ、殿様!」
もゆる子は、駒井の面《かお》にすがりつくように立ちどまって、
「こんなに、おそく、こんなところにおいでになろうとは存じませんでした」
「お前こそ」
「いいえ、わたしのは、こうして逃げ出して来るわけがあるから、逃げ出したのでございます」
「どうして?」
「逃げなければならないから、逃げ出して、殿様のお部屋へ逃げ込みましたけれど、どうしたものか、殿様がいらっしゃらないものですから、たまらなくなって、窓から飛び出して逃げて来ました」
こう言って、女は嵐のように息をきる。しかし、これも、深くは駒井を驚かすことはありません。やはり例によっての病気のきざしのさせる業《わざ》だと思いましたから、それをなだめるような気持で、
「何か怖い夢でも見たのかね」
「いいえ、夢ではありません、わたしは、今夜という今夜こそ、あのマドロスさんに、ひどい目に遭《あ》わされました」
「え!」
この時、なぜか駒井がギョッとして胸が騒ぎました。女は息をはずませながら、
「ちょっと先、戸があくような音がしましたので、ふと、眼をさまして見ますと、誰か、わたしの傍へ来ておりました」
「うむ」
「茂ちゃんならば、入りさえすれば、言葉をかけるのに、あんまり静かに入って来たものですから、わたしは、もしや……と思って」
「うむ」
「ところが、どうでしょう、今まで静かであったその人が、急に獣《けだもの》のように荒《あば》れ出して、わたしの体をおっかぶせてしまいましたから、わたしは声を立てることも、息をすることもできません、けれども、この悪い獣のような奴が誰だかということは、直ぐにわかりました、ほんとに獣です、人間じゃありません、あのマドロスの畜生です、あれのために、わたしは全く身動きも、息をすることもできなくなったから、助けて下さいと救いを叫ぶこともできやしません」
「うむ」
駒井は、うめくように答えます。
「ホントに口惜《くや》しい!」
もゆる子は歯噛みをして、息をはずませている。駒井は憤然として拳を握りしめました。
「ああ、油断の罪だ、ちょっとの注意の怠りが、そうさせたのだ」
「ホントに憎らしい奴です、いつ、隙《すき》をねらって来たんでしょう、ふだんならば、そのくらいの物音でも、わたしが声を立てなくても、金椎《キンツイ》さんはいけないとしても、茂ちゃんは直ぐに眼をさましてくれるし、声を立てれば、殿様のお寝間までも聞えるんだから、それにあのマドロスの奴も、このごろは、皆さんのおかげで全く改心したものと安心していたのが、こっちの抜かりでございました、今夜という今夜は、もう充分に隙をねらっていたのですね、茂ちゃんを驚かす物音もさせず、わたしに人を呼ぶ隙も与えずに、どうすることもできないようにしてしまったのです、ああ、口惜《くや》しい」
「うむ、油断だ、全く、こっちの油断の責めというよりほかはない、む、む」
「ですけれども、女だって、一生懸命というものはばかになりません、それほどにされた、あの大きな奴を突き飛ばして、はね起きて、わたしは、殿様のお居間までかけつけたのは、自分ながら夢中でございました。ところが、殿様のお居間の戸をあけますと、今夜は容易《たやす》くあきましたが、殿様がその中にいらっしゃいません、そのうちに、恐ろしい足音でマドロスが追いかけて来るものですから、わたくしは、たまらなくなって、あの窓から飛び出して、こっちへ逃げて参りました」
「ああ、そうか……」
駒井が、こうも抑えきれない無念の色を現わすことは、今までにあまり例のないことでありました。
「もう、安心なさい、マドロスの奴、酒の上とは言いながら、許し難き奴」
駒井は、やはり抑え難い怒気を含んで、そうしてその手はぐんぐんと、もゆる子を引き立てて、そうして陣屋の方へ急ぎました。
帰って駒井は、手早くキャンドルをともして見ると、狼藉《ろうぜき》のあとは、女の言うことを如実に証明しているが、当の暴行者の姿は見えない――ただ、茂太郎の声としてしきりに泣き叫ぶのが聞える。
駒井と兵部の娘とは、その声を聞きつけて飛んで行って見ると、茂太郎は蒲団《ふとん》の上に仰向けに抑え込まれている。茂太郎を抑え込んでいるのは人間の力ではなく、漁に使用する網を上から押しかぶせて蒲団もろともにグルグル巻きにしてあるのでありました。
そして、
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