手も足も出ない茂太郎は、声だけを上げて叫んでいる。
その網を取払って、そうして、茂太郎の口から聞くところによれば、熟睡中に不意に襲いかかって、自分の口をおさえ、その上をこの通り十重二十重《とえはたえ》に包んでしまった者がある。しばらくもがいた後に、ようやく咽喉《のど》の自由だけが出来たから、さいぜんから叫びつづけているが、身の自由は利《き》かない。叫んでも、今まで誰も来てくれない!
それを聞いてみると、酔いどれとは言いながら、たしかに、計画的にやった犯行だというよりほかはない。茂太郎を抑え込む以前には、多分主人公駒井の室の動静をもうかがっての上だろう。たしかに主人公がいないと見極めて、急に悪性《あくしょう》がこみ上げて来て、この蛮行に出でたものかも知れない――この雑然、噪然《そうぜん》、困惑の中に、金椎のみは別世界にいるように、いっかな夢を破られてはいないことがかえって不憫《ふびん》でもある。
すべてを、もとのようにあらしめ、もゆる子と、茂太郎とは自分の次の一室において、駒井自身も寝についたが、その夜は、ほとんど眠られませんでした。
翌日、人を集めて、旨を含めて、マドロスの行方《ゆくえ》をさがさせたけれども、それは容易にわかりません。悔恨に責められて、ドコぞの木の枝にブラ下がっているという報告も聞かないが、生きている以上は、遠くは逃げられないことになっている。よし遠く逃げたところで、眼の色と髪の毛とが、身を置くところ無からしめるにきまっている。
その日、一日さがさせただけで、マドロスの行方捜索は打切り……駒井の頭は、この浮浪人の行方よりも、そやつの働いた不徳の行為よりも、自分が監視のぬかりを悔ゆるよりも、それと関聯して、それとは別に、一つの軽からぬ悩みに捉われてしまいました。
その翌日は雨だものでしたから、駒井は、造船の方へ行かずして、一室に閉じ籠《こも》ってしまいました。
四十
駒井甚三郎はその翌朝、兵部の娘の寝室まで来て、
「どうです、加減が悪いということだが」
「はい、御免下さいまし」
寝台の上に寝ていた兵部の娘は、駒井の来訪に恥かしがって、起き直ろうとするのを、
「そうしておいでなさい」
傍らの椅子に腰を下ろすと、
「なんだか、少し寒気がしてたまらないものですから、あの子にお言伝《ことづて》を頼んで、寝つづけにしております」
「それはいけない、昨夜のことが祟《たた》ったのだ」
と、駒井は慰めるつもりで、そう言ったが、それを言ううちに、一種の不快な気分を如何《いかん》ともすることができません。
「そんなこともありますまいけれど……」
と答えて目をそらした娘の言葉も、冴《さ》えない。
「ゆっくりお寝みなさい、何か薬をさがして上げましょう」
「有難うございます」
しとやかなお礼の言葉。
駒井は、この女が、もはや全く平常の心持を取返しているということを、この時も、つくづくと思わされます。
かつての昔のような狂態は、少しも見ることはできない。しとやかな、恥を知ることの多い処女性の多分を認めるほど、かえって昨夜の変事が無惨《むざん》でたまらない。
そこで、暫く沈黙の重くるしい空気のうちに、駒井は立ち上り、
「大切にしておいでなさい」
その立ちかかった時に、もゆる子は、涙ながら向き直って、
「殿様、わたしは、昨晩寝ないで考えさせられてしまいました」
「何を」
「いいえ、いろいろの事について、考えさせられてしまいました、そのうちでも、あのマドロスさんのことねえ」
「うむ」
「ほんとうに憎い奴、ゆるせない人ですけれど、よくよく考えてみると、かわいそうなところもありますから、許して上げていただきたいと、そのことを殿様にお願いに出ようか知らと思っておりました」
「うむ」
「あの時は、わたしも叩き殺してやりたいほどに憎らしいと思いましたけれど、考えてみれば、あれも、あの人の一時の出来心ですから、許してやっていただきとうございます」
「うむ、それは、どうでもお前の気の済むように、わしにはわしの了見がある」
こう言って、駒井は重い足どりで、この室を出て庭の方から一廻りして、自分の部屋へ戻って来ました。
あの女が許せ! という意味がよくわからない。
「わたしは、今までに七人の男を知っているのよ、なかにはわたしの好きな人もあったし、わたしをヒドい目に会わせた人もあるけれど……欲しがっているものを、くれてやるのはいい事じゃありませんか、物を施すのがいい事なら……慕いよる男という男に、情けを与えてやることも、悪いという理窟はないんじゃありますまいか。ああ、わたしは七人に限らず、誰にでも、この身体《からだ》をやってしまおうか知ら、お女郎は身体を売ってお金を取りますが、お金を取らないで、人に情けを施すこと
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