し上げてはなんだが、当時惰弱の公方様《くぼうさま》に任せておいては、多分、その一つさえ元も子も無くなってしまやしないかと、こう思いますから、そいつを一つ、ちょろまかして、世間が鎮まるまでどこぞ深い山奥へでも隠して置いたら、どんなものかと、そんなばかな了見で、仕事にかかったものでございます。それでもまあ、苦心の甲斐があったというものか、ようやくこのごろになって、その一つだけは、その目方と、在所《ありか》だけは朧《おぼろ》げながら突留めて参ったという次第でございます」
「そうか、さすが蛇《じゃ》の道だ、拙者共の伝手《つて》で、どうしても要領を得なかったものを、お前の働きであたりがついたとは感心だ。いったい、その代物はどこにある?」
「その一つは、たしかに尾張名古屋の城の、御宝蔵にあるとこう睨《にら》みました」
「名古屋の城に――」
「はい、尾張名古屋のお城というところには、どういうものか、徳川のお家の選《え》りすぐった宝という宝がよせ集めてあるようなあんばいでございますな。大阪の城から取って来た、太閤様のエライ品物はお江戸には置かず、みんな尾張の名古屋にしまってござるというのは、権現様の思召《おぼしめ》しで、名古屋が、何につけても、いちばん安全だというところから、そんなことになすったという説もございますが、太閤様の御威勢でおこしらえになった贅沢品《ぜいたくひん》という贅沢品がすぐって、あの尾張名古屋の城に入れてございますようですから、たいしたものでございます。外へ出ている金の鯱ばかりが名物ではございません、お城の中には、今いった千枚分銅をはじめ、宝という宝が腐るほどうなっているんだそうでございます。そこでこの七兵衛もまた出直して、尾張名古屋へ当分根を生やそうかと思いまして、それで、ちょっと、お暇乞《いとまご》いに上ったようなわけなのでございます。これはお土産のしるし……」
と言って七兵衛は、保命酒のようなものを一つ取り出して主膳の前に置き、そのまま、風のように、さっ[#「さっ」に傍点]と出かけてしまいました。それを、あっけに取られて見送っていた主膳が、
「相変らず忙しい男だ、お土産を持って到着の挨拶に来たのだか、出立の暇乞いに来たのだかわかりはしない、羽の生えている奴にはかなわねえ、尾張名古屋への往復が、芝金杉へ行くような調子なんだから。だが、危ねえもんだなあ、あいつ、あれで分別盛り、べつだん高上りをしているわけでもないが、四十八貫目の泥棒は骨だろう、あいつも小力《こぢから》はありそうだが、四十八貫目では、ちょっと持ち出せまい、危ねえものだテ……」
主膳は、憮然《ぶぜん》として、七兵衛の立去ったあとを見ていると、七兵衛が立去る時に合羽の裾で揺れた牡丹の葉が、まだ一生懸命に首を振っている。
三十七
駒井甚三郎は、今晩、遠見の番所の附近へ新たに立てたバルコン式の台上にのぼって、天体を観察している。
駒井が、天体を観察するの余裕を得たことは、それだけ、海と船との事業が滞りなく進捗している証拠であります。さりとて、海を行く者が天を観ることは必須であります。駒井が天文の趣味と、天体の観察は、今に始まったことではないが、船の方の工事に、すっかり安心が出来た故にこそ、今度はこうも落着いて、専門的に天を観ることに取りかかったその態度、空気は容易《たやす》く見ることができるのであります。
事実、駒井のこのごろは、船の工事の監督が三分の、天文の研究が七分といってもよいほどに時間を割《さ》いているのです――無論、昼は天文学と共に相関聯した航海学、六分儀の使用、海図研究――夜はこうして天体の実測観察。
駒井が天体を観察する傍らに、清澄の茂太郎が立っている。小脇には例によって般若《はんにゃ》の面《めん》をかいこみつつ、
「殿様、歌をうたってもようござんすか」
「お歌いなさい」
お許しが出たものだから、澄み渡った夜の外房の空に向って、得意の即興詩がはじまる。
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さて皆さん
皆さんは
この大地は
四角なものだとか
或いは平らなものだとか
お考えでございましょう
ところが違います
この大地は丸いものです
丸い毬《まり》のようなものです
丸い毬のようなものが
ブラリと大空の中に
ブラ下がっているのです
それを嘘だと申しますか
嘘ではございません
どうして丸いものが
大空の中に
ブラ下がっています
針金で留めてありますか
紐《ひも》で下げてありますか
ネジでまいてありますか
そんなら、その
針金と、紐と、ネジは
どこにあります
その針金と、紐と、ネジを
かける柱はどこにあります
壁はどこにあります
そんなことを知りたければ
駒井の殿様に
聞いてごらんなさい
殿様は学者ですから
その理窟を知っています
ですけれど
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