て、わしが欠けてしまった日には全く思われる――この家が焼けたなんぞは、それに比べるといわば小さな災難かも知れない。ところで、どうしても、あれの将来を見て行く成算がわしには立たない。前にもあとにも、あれを預けて、やや安心のできたのは失礼ながらお前さんばかりだ。どうでしょう、言われた義理ではないが、お世話ついでに、もう一ぺんあれを見てやっていただけますまいか。まず、あれを一緒に連れ出して、名古屋見物から、伊勢参り、京大阪、四国九州、お前さんとならば唐天竺《からてんじく》でもどこでもいいから、ひとつ引廻して来てくれまいか。ああして、暮らさして置いては何をやり出すか知れたものではない、お前さんならば、あれを引廻せると思う、引廻しているうち、馬じゃないが乗り放したってかまいません。旅をさせて、その日その日の気分を転換させれば、存外気が発して、さばけてくるかも知れません。これはお前さんを見かけてのお頼み、お前さんでなければ頼まれてもやれない仕事だが……なんと、わしが胸の中を察して、引受けて下さるまいか」
こういって、口説《くど》かれた時に、お角さんの気象として、それを断わり得る理由がありません。
「どう致しまして、わたしなんぞに、あのお嬢様をお引廻し申すなんて、そんな力があるものじゃございません、わたしどもこそ、お嬢様から引廻されているようなものでございますが、それでも多少年の功で、おとなしく引廻されているところに御贔屓《ごひいき》があるんでしょうと存じます。とにかく、おすすめ申してみることはみましょう。ほんとに旅ほど気晴らしなものはございません、お嬢様のお気に向くかどうか、それは存じませんが、おすすめ申すだけはおすすめしてみましょう」
こういうふうに答えて、お角は、お銀様に向い、一通りのゆくたてを話した後に、改めて、それとなく父の希望を、自分の希望として、お銀様に旅の誘いをかけてみました。
お角の説きつけぶりがよかったせいか、お銀様の風向きがよかったのか、すらすらとお角の誘引に乗出したのが不思議なくらいでありました。
「そうですね、そう言われると、東海道の道中は面白そうですね、名古屋の踊りも見たい、お伊勢参りもしたい、奈良や、京都や、大阪、なんだか物語でなつかしがっている風景が、眼の前へ浮いて来るように思います。お前さんとなら安心だと思います、一緒につれてもらおうか知ら」
「お嬢様、ぜひそうなさいまし、わたしがついて、思いきって、お嬢様に面白い旅をさせてお上げ申しますよ」
こうして、お角はとうとう、お銀様を口説き落して旅立ちの決心をさせてしまったのは、予想外以上の成功でありました。
お角が、この予想外以上の成功に、自分の腕の誇りを感ずるよりは、それと聞いた父の伊太夫の喜びは、非常なものでありました。厄介払いをしたというわけでないが、たしかに自分のあえぎあえぎ背負って来た重荷を、一時《いっとき》なりとも人に肩代りをしてもらう心安さを、喜ばずにはおられなかったらしい。
スフィンクス建設の工事と計画は、案を授けて、不在中に進行させ、自分は早くも旅の用意にかかったお銀様――お銀様自身の用意よりもなお周到に、十二分の用意を迅速にととのえてやる父の手配。
善はいそげ、御意の変らぬうちと、その発足も、翌日ということにきめてしまいました。
この有力な人質を得て置くことは、今も昔もお角にとって、損の行くことではありません。一石二鳥というが、これは少し荷が重いには違いないが、一石二鳥にも三鳥にも、或いは無尽鳥にも向う宝の庫を背負わせられたように、転んでもただは起きないお角の功名の一つでありました。
これがまた、父の伊太夫を喜ばすことは前述の如く、この暴女王の絶対権に支配されていた以前の小作たちから圧迫の重石《おもし》を除いて、鬼のいぬ間という機会を与えた善根になるというものです。
いずれにしても、お銀様の急の旅立ちということが、三方四方によい空気を持ち来《きた》してしまったことは、近頃にはない勿怪《もっけ》の幸いでありました。
だが、申し合わせたわけではないが、この時、名古屋にはすでに、江戸ッ児の先達《せんだつ》を以て自ら任じている道庵先生が、すでに先発している――それに伴うて、お角さんにとっても、切っても切れない縁のあるらしい正直にして短気の米友公というものの存在がある。
そこへ、お銀様と、お角さんが乗込んで、万一かの地で鉢合せでもしてしまった日には、名府城下の天地の風雲も想われないではない。
三十五
神尾主膳はこのごろ、子供と遊ぶことに興味を覚えたらしい。だがそれは子供と遊ぶというよりは、子供をおもちゃにすること、子供を涜《けが》すことによって、自己の満足を買うことに興味を感じ出したものというのが至当でし
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