ょう。
それの因縁は、先日のある日のこと、子供らが凧《たこ》をひっかけたのを取ってやったことに原因して来ているようです。子供たちもようやく狎《な》れ睦《むつ》ぶの心を現わして、
「ここんちの親玉は、こわい面《かお》をしているけれど、本当は怖くないよ」
「悪いやい、親玉なんていうのはよせやい、こんな大きな、豪勢なお屋敷だろう、殿様だよ、きっとお旗本の殿様なんだぜ」
と、たしなめる。
「殿様――殿様にしちゃあ、家来がすくねえのう」
「殿様の御隠居なんだろう」
「御隠居――それにしちゃあ、年が若《わけ》えのう」
「だって、ただのさんぴんじゃ、こんなお邸は持てねえや、殿様だよ、殿様にしておかねえと悪いや」
「殿様? ほんとうに殿様か知ら、じゃあ、加賀様かえ」
「馬鹿――加賀様は百万石だ、殿様だって、ここん殿様あ、そんな大名と違わあ」
「じゃあ、何て殿様?」
「殿様は殿様だが、お旗本だよ」
「お旗本の何て殿様なの――」
こうたずねられて、悪太郎の兄《あに》い株が少しテレているのを見る。
百万石の殿様でないことはわかっている。お旗本の殿様だと仮定してみる。百万石必ずしも大ならず、小なりとも、お旗本にはお旗本の貫禄があるということも、子供心に納得はしているらしい。だが、ここの殿様は、何という殿様――何様のお屋敷とたずねられては一方《ひとかた》ならず迷う。重代の屋敷地ならば知らぬこと、ここへ来たのは昨年であり、御門には表札もなければ、誰もまだ熟したお邸名《やしきな》を呼んでいる者はない。染井のあの屋敷ならば、その以前から人は化物屋敷の名に恐れているが、ここの屋敷には、先住が越して空屋となっていること久しく、呼びならわしたなんらの邸名が無い。
「ここんとこの殿様には、目が三ツあるね」
先日、平身低頭していた凧の持主が、突然にこう言い出すと、
「ああ、本当だよ、眼が三ツあるよ、一つはここんとこのまんなかにあって、錐《きり》のような形をしていたよ」
眼が三ツある殿様。普通の眼のほかに、錐のような眼が、額のまんなかに一つついていて、総計三ツある。
「じゃあ、三ツ目錐の殿様と、おいらたちで名をつけようじゃねえか」
「三ツ目錐の殿様――よかろう」
「いいかえ、では、ここの殿様は三ツ目錐の殿様、このお邸は三ツ目錐の殿様のお邸っていうんだなあ」
「ああ、そうきめちゃおう」
「きまった、きまった、三ツ目錐の殿様、三ツ目錐のお邸」
異議なく、ここに新名称が選定される。口さがなき根岸わらべによって、神尾主膳は、三ツ目錐の殿様の名を奉られてしまう。こういう名称は、本人が聞いて、喜んでもよろこばなくても、禁じてもすすめても、それの流行は止むを得ない。
子供たちも、さすがに、殿様自身に聞えるようには、選定名称を呼びかけはしないようです。
三ツ目錐の殿様は、日を期して、これらの童《わらべ》共のために門戸を開放するのみならず、時としては、座敷の上まで、その闖入《ちんにゅう》を拒まないことがある。
子供らは、よい遊び場所を得たと思っている。見かけは怖いおじさんが、存外以上に甘いおじさんだということを見出してきた。その芝生の上は相撲競技、凧あげに持って来いだし、座敷へ上り込むと、この子供たちとしては、武器や、掛額や、相応見るものがあり、碁盤、将棋盤の弄《もてあそ》ぶ物もあることを見出してきました。
五人が六人――十人――二十人と殖えて、三ツ目錐の屋敷が、界隈の子供たちの倶楽部《くらぶ》になってきたことをも、主膳は一向とがめる模様がありませんでした。
だが、ここに繰返すまでもなく、主膳のは、空也上人や、良寛坊が子供と遊ぶことを好むのとも違い、ペスタロッチやルソーが子供の教育にかかるといったような精神でもなく、お松や与八のように、子供そのものと共に学ぶというのでもないことは勿論《もちろん》です。
あらゆるものと遊び、あらゆる人間を涜《けが》し来《きた》って、倦怠と、自暴《やけ》とのほかには、何物も贏《か》ち得ていない荒《すさ》み切った自分の興味を、今度は、子供たちをおもちゃにすることによって、補おうとする転換に過ぎますまい。
だから、時を期してここへ集まった子供らに、主膳は露ほども教養の制縛を与えないのです。与えないのみならず、あらゆる野卑と、悪戯《いたずら》と、不行作《ふぎょうさ》と、かけごと勝負と、だまし合いとを奨励して興がるかの如く見ゆる。
そこで、相撲も、凧上げも禁じない如く、丁半《ちょうはん》、ちょぼ一、みつぼの胴を取ることまでも、主膳は喜んで見物する。なかには、その辺の知識経験で、主膳に舌を捲かせるほどの文才を発見することもある。
大人も及ばぬ、猥褻《わいせつ》な挙動と言語を弄んで、平気でいるのもある。
性の知識と裏面、その楽書、その振舞
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