つけ、あの親方を名古屋に引っぱり出して、この機運の手綱《たづな》を取らせたら、それこそ見物《みもの》である。
天下の興行は名古屋から出で、名古屋の興行は女流から出でるという歴史が作れる――と、そこまで乗込んだかどうか知らないが、名古屋の女流の人才余りあって、その経営者の不足を見て取った者が、江戸に遊んでいるお角さんのことを想い出したのは、人物経済眼の卓《すぐ》れたものと買ってやってもさしつかえありますまい。
そこで、通人がお角さんを説きつけたものです。
そこは、お角さんも女ではあり、小うるさいから引退を表明したようなものの、人のする仕事を見ていると、子供のようで、腕がむず痒《かゆ》くてたまらないところへ、ここに持ち上げられた名古屋女天下の一巻は、かなりお角さんの雄心をそそるのに有力なものであったようです。今までは江戸で鳴らしたのだが、江戸で鳴らしたということは、一代に鳴らしたと同じようなことにならないではないが、今度のは、名こそ名古屋だが、やり様によっては、名古屋へ立って、上方と関東とを、両手に提げることができまいものでもない。
興行界で、未だ曾《かつ》て何人《なんぴと》も成功しなかった、東西を打って一丸とする太夫元――後年、松竹という会社がやり遂げたことを、お角さんの手によって、やり得られないという限りもない――お角さんの気象としては、乗出す以上はともかくも、その辺までの客気がのぼせ上ったことかも知れません。それで話が、ずんずんと進んで、よろしい、一番脈を見に参りましょう、なんて道庵の向うを張る気になったらしい。
しかし、お角さんは、道庵先生とは違い、根が興行師だけに、かなり山っ気も向う見ずもあるが、また相当に腹のしめくくりがある。いかに乗り気になったところで乗出した以上は物笑いになるようなことをしでかして、江戸ッ児の沽券《こけん》を落したくはない。乗り気にはなっているがはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]はしない。
「なあに、わたしなんぞ、上方《かみがた》の衆を相手にしては第一イキが合いませんからね、何かやれたらお慰みですね。ですけれど、まだ、尾張名古屋というところは、話には聞いていますけれども、お恥かしながら、土地を踏んだことはございませんから……一度金の鯱《しゃちほこ》を拝みに寄せていただきましょうか知ら。名古屋へ行けばお伊勢様は一足だし、伊勢へ参れば京大阪は、ほんの目と鼻、京大阪へ行った日は、金刀比羅様《ことひらさま》ということになりましょうから、ひとつこの際、奮発して出かけてみましょうかね。遊びですよ、遊びに出かけるんですよ、西国巡礼に毛の生えた物見遊山でございますよ、決して仕込みに行くのじゃありませんよ」
こう言って、お角さんは、若衆《わかいしゅ》の七公だけを一人つれて、気散じに出かけたものです――その途中、表東海道を通る順だけれども、かねがね、恩顧にあずかっている有野村の大尽様に、ご無沙汰のおわびをし、兼ねて、このごろは家に帰っているとの通知を得たお銀様にも会って行きたいし、そんなこんな事情から、甲州街道を取って、ひとまずこの地へ立寄りをしたものですが、これから後は富士川を下って東海道筋へ出るか、あるいは諏訪へ出て飯田から名古屋方面へ出るか、それもまだきまっていないらしい。
その一通りの道程を、お角はお銀様に物語る前に、伊太夫に会って、逐一《ちくいち》話してしまったのです。
伊太夫はお角のきっぷ[#「きっぷ」に傍点]を愛して、かなりの信用と、贔屓《ひいき》を払っている。今日、わざわざ道を枉《ま》げて尋ねて来てくれたことにも、非常なる好意と、歓喜とを感じている。
お角さんの方でも、今後また名古屋を地盤として、東西へ足をかけた仕事に乗出してみるような機会には、この大尽の好意、或いは諒解を得ておくことは、どのみち損ではないと考えていました。
この一伍一什《いちぶしじゅう》を、最初、お角さんが、伊太夫に向って物語った時、それを聞き終った伊太夫が、思い当るところあるらしく、考え込んでいたが、結局、こういうことをお角さんに向って申し出しました、
「それは結構なことで。いつになっても、お前さんのその男まさりの仕事好きの勇気には感心するよ、お前さんが男であったら、それこそ大物師になれるし、一代の金持にも、株持にもなれるお人だ、感心しました。ずいぶん、大切に行っておいでなさい。また旅先で何かと、わしで用の足りることがあったら、言ってよこしてみて下さい……それからね、いやな話だが、やっぱり落ちて行くのは、あの娘のことだがね――あれもお前さんにまで、重々迷惑をかけてしまったが、何ともしようがない、今は我儘放題にして、屋敷のうちへ取りこめて、腫物《はれもの》にさわらないようにしているが、まあ、わしでもいるうちはいいとし
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