また、江戸ッ児のお角さんが何の用あって――何の謀叛《むほん》のために乗りこんで、おきゃあせ[#「おきゃあせ」に傍点]の相場を狂わそうとするのか。
 それには、また、こういうわけと仔細があるのです。
 少し長いかも知れないけれども、その由緒来歴は一通り説明してみないとわからないでしょう。
 そこで、大要が尾張名古屋の城下の舞踊の略史ということになる。
 舞踊――おどり[#「おどり」に傍点]を口にするほどのものが、名古屋の踊りに特別の地位を認めないというわけにはゆくまい。
 人も知るところの、近代の名古屋の舞踊界に同時に現われた三人の名手。
 京都祇園の生れ、篠塚力寿《しのづかりきじゅ》(本名、後藤りき)が、父に伴われ名古屋に来たのは天保十四年の頃、彼女十七歳の時、これが篠塚流を以て名古屋の花柳界舞踊を風靡《ふうび》した一人。
 阪東秀代が江戸から流れて来たのは弘化三年、年二十三歳の時という。秀代は江戸旗本の娘(本名、川澄うら)、これが篠塚流に劣らざる名古屋舞踊界の大きな勢力となる。
 この間に出入介在して、長と能とを取入れて、ついに天下無比と名古屋が誇る名古屋踊りを大成した西川鯉三郎が現われる。
 力寿――秀代――鯉三郎。流名を以て言えば篠塚流と、阪東流と、西川流とが、幕末及び明治にかけての名古屋舞踊の三大潮流をなす。後にはみな西川派へ合流してしまったようなものだが、この三派にもおのおの、盛衰と消長とがあって、或いは合し、或いは離れて、かなりの混戦があった。力寿は京都にある時、四歳にして家元篠塚文寿の門に入り、十三歳にして名取《なとり》となる。踊りのほかに太鼓、鼓、筝、三絃にも妙を得て、その上に類稀《たぐいま》れなる京美人ということがあったから、酔雪楼の芸妓となって、傍ら踊りの指南をしているうちに、ついに名古屋芸妓の取締に選ばれることになる。
 西川鯉三郎が、江戸から名古屋へ入って来たのは、右の篠塚力寿が全盛時代であったことと思われる。
 力寿の父は、鯉三郎が西川流の踊りを見て感嘆し、これを自分の家に留めて踊りの師匠をさせていたが、やがて二人は結婚して、ほどなく離婚し、力寿は京都円山へ移り住むことになった。
 文久元年、力寿は再び京都から名府へ帰って来たけれど、その時、阪東秀代の勢力が隆々として、力寿はこれに圧倒されんとしていた。
 阪東秀代は舞踊に於て、篠塚流を抜いたのみならず、安政四年、門弟を集めて女芝居の一座を組織し、その初興行を若宮で催したのが縁となって、名古屋の女優界に一つの機運を産み出した上に、中村宗十郎の妻となって、彼を一代の名優に仕立てたのは、その内助か、内教かの功多きによるという。
 篠塚力寿が京から再び名古屋へ帰って来る。留守の間に自派の振わざるを見、阪東派の盛んなのを見て、いかなる感慨を懐《いだ》いたか、それはわからないが、力枝、大吉、力代といったような弟子たちを集めて、女芝居を組織したところを以て見れば、多少の義憤と、敵愾心《てきがいしん》を持っていたことは争われないと思われる。
 舞踊は西川流に併呑され、或いは合流されて行くうちに、この二人の花形がようやく老いゆきて、舞踊から女優方面に、進路を見つけようとした潮流はよくわかる。
 それと前後して、以上の三流とは全く別派の流れをなして来たものに、初代岡本美根太夫がある。
 もとは江戸の人で、新内を業としていたが、大阪で薩摩説教節を聞いて、これを新内と調和して新曲をはじめ出した。
 この岡本の女弟子たちによって源氏節なるものが生れんとして未《いま》だ生れず。
 そんなような空気から、名古屋の女流界にはかなり鬱勃《うつぼつ》たる創業の意気が溢《あふ》れていたものらしい。つまり、女流界の芸人で、現在に反感を持つもの、不平を抱くもの、新方面に発展の先例を見、或いは新例を開かんと企てるもの……とにもかくにも、女流興行界に一種の鬱勃たる野心がこもっている。この鬱勃たる野心にうまく火をつける人があれば、事は大きくなるにきまっている。
 その空気を見て取った誰かが、お角さんに伝えたものらしい。
 人に屈下せざる、とにもかくにも自ら祖をなさんとする意気に満ちた女流芸人が、名古屋の天地に存在していないということはない。ただ憂うるところは彼等を踊らせる舞台廻しがいないことだ。八天下は無天下になり易《やす》い。人才があまりあって、経営者がないことの恨み。あればこの際、これらの野心満々たる女流才人を打って一丸とし、この鬱勃たる興行の空気をよきに統制して導く興行者さえあれば、名古屋女流が、天下に向って気を吐き得ること疑いなし。
 その不足と、遺憾の点を見て取ったその道の通人が、江戸へ往復のついでに、当時、異彩を放って、未だ老いたりという年でもないのに、あたら引退しているお角さんに眼を
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