様、御無事で結構には結構でございますが、角はずいぶんお恨み申し上げますよ。どうして、わたしのところをまあ、おことわり無しに出ておしまいになったのでございますか。お嬢様のためには、わたしはああしてあれほど、もうできます限り御機嫌に逆らわないように、お世話申し上げたつもりでおりましたのに、何が御不足で、おことわり無しにお出かけになってしまったのでございますか。お嬢様に出し抜かれた、わたしの身にもなって御覧下さいまし、口惜《くや》しいやら、辛《つら》いやらで、あの当時は、お嬢様に食いついてやりたいほどにお恨み致しましたが、それも、こっちの心がけが悪かったせいだと観念致しました。お出かけになるならお出かけになるように、一言そうおっしゃって下されば、何の事もございませんのに、角だってあなた、お嬢様の首に鉄の輪をはめてどうしてもお引留め申さねばならぬとは申しません、また、わたしたちが鉄の輪をかけてお引留め申したって、お引留め申すことができるほどのお嬢様でもございますまい。ほんとに、出し抜かれた当座は、わたしの気象として、腹が立って、腹が立ってたまりませんでしたけれど、こうしてお嬢様にお目にかかってみますと、もうそんな腹立ちは一切忘れてしまって、なんだか嬉しくて、おなつかしくて、つい、こんなに涙が出るような始末なんです、わたしも意気地がなくなりましたねえ」
と、お角は一息にまくし立てましたが、なるほど、それも口前ばかりではないらしく、お角の眼が、次第次第にうるおってくるようです。お角さんという女、まさか人を喜ばすために眼を湿《しめ》らして見せるなんという、しみったれた芸当をする女ではあるまいから、実際、こう言っているうちに、なんとなく、嬉しく、懐しくなって、珍しいことに涙を催してきたのかも知れません。
 といって、お角ほどの女が、お銀様に向っては苦手であることはいまさら申すまでもありません。
 お角さんほどの女が、このお銀様の前へ出ると何か気が引けて、先《せん》を越されて、圧迫を蒙《こうむ》るように息苦しい気持になることは、宇治山田の米友ほどの男が、このお角さんに向うと、どうも、すくんでしまうようなものです――だが、なるほど、恐縮の何物かを感ずる底に、また何とも言い難い一種の親愛がひそんでいるようにも見られる。
 お角ほどの女が、こうしてお銀様の前で涙ぐむのも、この言い知れぬ親愛の縁がそうさせるのかも知れません。
「親方、どうも済みませんでした、あの時は、つい、あんな気になってしまったものですから、フラフラと出かけてしまいましたが、お前さんにことわらないで出たのは、わたしの卑怯ゆえだと思いました」
「いいえ、お嬢様、わたしが至らないからでございます、お嬢様の機先を打つことができなかった、つまり、こっちの抜かりでございますから、仕方がございません」
「そうではありません、お前さんの信用をいいことにして、ペテンにかけて、わたしが出し抜いたのですから、全く、わたしの卑怯よ、堪忍《かんにん》して下さい」
「どう致しまして、わたくしこそ申しわけがございません」
「いいえ、重々、こちらが悪かったのよ、あやまります」
といって、お銀様がお角の前に、頭を下げたものですから、お角が何といっていいか、暫く挨拶に困りました。

         三十四

 お角の、ここへ訪ねて来たということは、必ずしも出来心ではありませんでした。
 そうかといって、血眼《ちまなこ》になって、お銀様の行方をさがし求めに来たものでもありません。
 また、お銀様の父の伊太夫に対して、資本主としての貸借関係から、その債務を果すためとか、申しわけのためとか、そんな用向で、わざわざ再び甲州の地を踏みに来たものとも思われません。打ちとけた話を聞いてみると、それもこれもひっくるめて、こんなような次第です。
 切支丹大魔術師の一世一代を名残《なご》りとして興行界から引退したお角、引退はしたけれども、世間もこの業師《わざし》を捨てて置きたがらないし、自分も、どうかすると、腕がむずむずすることのあるのはやむを得ません。
 だが、見込みのつかない事には乗らず、見込みのつく事は人に知恵を授けてやって自分は乗出さずに、うまく舵《かじ》を取っていたのが、今度はひとつ身体《からだ》を乗出さなければならなくなった、というよりは、自分から進んで出かけてみようという気になったところのものがあるのです。
 それは、この甲府が目的の地ではありませんでした。
 一蓮寺のあのいきさつは、今ではもう夢のあとです。お角ほどの江戸ッ児が、あの時の燃えのこりを根に持って、灰下をせせりに来るという、了見はありますまい。甲州へ来るのが目的でなく、その目的のところは、ずっと離れた尾張の名古屋の城下ということでありました。
 尾張名古屋へ
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