それぞれの名をしるし、名のわからない時は、情夫を幾人持った女、幾人の男に辱しめられた女――亭主を殺した女、殺したといわれるが証拠の無いという女――その罪の輪郭だけを書いた幾つもの位牌をこしらえつつ、その殖えてゆくのに、ほくそ笑みをしています。
 最初は、歴史的に、文章記録の上から調べ上げた者、その名は全部過去の人でありましたが、後には、ある部分は過去の人があり、追々に大部分が現存の人であろうとする。お銀様は過去の悪女のために位牌を作るのみならず、現存の悪女のためにも位牌を作っているのです。そうして、その結果が、あっぱれ、この悪女塚の供養式の日には、世に無き亡霊を呼び迎えるのみならず、現に生きている悪女という悪女をことごとく招いて、列席させてみようではないかとの、一種異様なる興味に駆《か》られてしまいました。
 この女の我儘《わがまま》と権勢では、やがてその空想の実行にうつるかも知れないが、さて、何の名目で、その悪女のみを集めるか、呼ばれても果して、その招待に応じて、目的の女性たちが集まるか――?

         三十三

 こうして幾日の間、お銀様はスフィンクスをこしらえることの興味に熱中している時、不意にこの熱中を破るものがありました。
 ここでは絶対権を有するお銀様、来って触るるものには、暴君の威を示して粉砕するお銀様の興味を破るものは何、破り得るものは何。
 それはもとより、父の干渉ではありません。父といえども、この領国に足を踏み入るることの危険は、知りつくしていなければなりません。否、父こそ最もその危険を知っているものといわねばならぬ。自然、善にまれ、悪にまれ、気まぐれにせよ、乃至《ないし》、狂気の沙汰にせよ、ある一つの事にお銀様が興味を持ち出したということは、父にとってむしろ勿怪《もっけ》の幸いであらねばならぬ。熱中の間にこそ、ともかく、一時的なりとはいえ、この暴君の境外進出が沮《はば》まれることになる。
 それは、酒飲みに酒を与えて置くように、餓虎に肉をあてがって置くように、飽いて後の兇暴は知らず、ありついている間の平静を喜ばねばならないのが、父伊太夫の立場です。
 況《いわ》んや、その他親族、家人らに至っては慴伏《しょうふく》あるのみで、誰ひとり、お銀様に当面に立とうという者があろうはずがありません。さればこそ、この暴女王の絶対権を干犯《かんぱん》するものが、その興味の中断を試むるものが、この有野王国のうちに存在するはずはありませんが、今日は少なくとも、その暴女王をして一時《いっとき》、呆気《あっけ》に取られて返すべき言葉を知らないほどの事件に出会《でくわ》させました。
「まあ、お嬢様、御無事でいらっしゃいまして何よりでございます、ほんとに、よく御無事でいらっしゃいました」
 こういって、遠慮なく、障子越しに、なれなれしい言葉を聞いたものだから、暴女王が、悪女の名を記す筆をとどめて、あっけに取られました。
 この王国のうちに、自分に対して、こんななれなれしい、涜狎《とっこう》に近い言葉づかいを為し得る奴がどこにいる。
 のみならず、障子越しに、こんななれなれしい言葉をかけてから、縁側へ進み寄って、
「御無礼いたします、お嬢様」
と言って、障子を引開けてしまったのです。そこでお銀様、
「あ、お前は両国の親方じゃないの」
「はい、角《かく》でございます、どうも御無沙汰いたしました」
「まあまあ、お前」
 さすがのお銀様が、あきれて物が言えなくなったのも道理であります。
 女軽業《おんなかるわざ》のお角は、いつもと同じような水々しさと、そらさぬ愛嬌を以て、ここへ現われたのには、さしものお銀様にとって意外の限りでないことはありません。
「だしぬけに、あがりまして、申しわけがございませんが、お嬢様が、こちらにいらっしゃると聞いて、あんまり、おなつかしいものですから、つい、こんなに、ざっかけに押しかけて、お仕事のおさまたげをしてしまいました」
 息をはずませて、お角がこう言いました。これに対して、お銀様に悪意を表するの機会を与えないほどの呼吸でありました。お銀様とても、この意外は強《し》いてつむじを曲げるほどの意外ではなかったと見え、
「ほんとに、親方、珍しいことですね。どうして、いつ、こっちへ来ました。まあ、お上りなさい」
といって、お銀様は、あたりを取りかたづけてお角を招きます。
「まあ、お上り……」
といって、この暴女王から特権を与えられたものは、あの間《あい》の山《やま》から流れて来たお君という薄命の少女のほかには、ちょっと類例を見出し難い記録でしょう。
 それを、ハニかんだり、辞退したりするようなお角ではありません。
「では、御免下さいませ」
 ここで、お銀様とさしむかいになると、お角はまた打ちつけに、
「お嬢
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