落ちた女性の名。
 尊貴の身にして、やはり嫉妬のために焼き亡ぼされ給わんとしたその御名。
 小碓命《おうすのみこと》に恋を捧げて、その父を売った梟帥族《たけるぞく》の娘。
 蛇形《じゃぎょう》の者と契《ちぎ》って、それを悔い恥ずるの心から、箸をほと[#「ほと」に傍点]に突き立てて自殺したという姫の名。
 蘇我氏の大逆の裏に拭うべからざる大伴《おおとも》の小手古《こてこ》の姫の名。
 日本武尊《やまとたけるのみこと》を伊吹の毒の山神の森に向わしめた尾張の宮簀姫《みやすひめ》の名。
 藤原の薬子《くすこ》の名も見える。
 額田女王《ぬかだのおおきみ》の名も、悪女の神に入れてあるらしい。
 石河楯《いしかわのたて》と姦したがために、日本に於てはじめて磔刑《はりつけ》というものにかけられた池津姫《いけつひめ》の名もある。
 夫を外征にやって、その間に帝《みかど》に奪われた田狭の妻――の名もある。
 延喜天暦の頃の才媛にも悪女が多い。
 頼朝の政子も――秀吉の淀殿も――家康の築山殿も、千姫も、みんなお銀様は悪女の名に編入しているらしい。
 ずっと近代になって、延命院の美僧のために犯されたという女性たち。
 大奥の江島は、実は月光院の犠牲であるという意味でお銀様は、流された江島よりは、本尊の月光院の名を憎んで、悪女の中に入れてしまっているらしい。
 それと、生島新五郎の弟大吉を長持に入れて、奥へ運ばせて淫楽に耽《ふけ》ったという尾州家の未亡人天竜院もまた、悪女として、お銀様の供養をまぬがれることはできないらしい。
 三十六人の情夫を持ったという某《なにがし》の俳優の妻も、許した限りの男の定紋をほりもの[#「ほりもの」に傍点]にして肌に刻んだ莫連者《ばくれんもの》――
 蛇責めにあったという反逆の女性。
 すでにかくの如くして、歴史、文章、記録、草紙、物語の中より、一通り検討しつくして筆端にのぼせてしまったお銀様は――ついには物の本にあり、或いは伝説にあって、その実在を疑われるほどのものまでも、ようやく取入れてしまったらしい。
 そこで、今度は、自分の身辺のことに及んで来る。自分の身に最も近いところの、悪女の面影を思い浮べ来《きた》ると、
[#ここから1字下げ]
「悪女大姉」
[#ここで字下げ終わり]
 この名が、先以《まずもっ》て、筆端に押迫って来る。
 染井の化物屋敷の、うんきの中に、土蔵住まいをしていた時の机竜之助の口ずから聞いて、亡き者を、有るが如くに妬みにくんだあのお浜という不貞な女。
 お銀様は、筆誅を加えるほどの意気組みで、その名を錐《きり》で揉み込むほど強く木片に認《したた》めて、長いこと睨みつづけておりました。
 その次には、自分の継母を加えようとしたらしいが、あれはにくむに足りない女だという、軽蔑の気が先に立ったものか、急にとりやめてしまったようです。
 ある時は、お角という女興行師の親方をも筆端に上せようとしてみたが、いやいや、あの女も悪女ではない、いい女だ、気象のさっぱりした、男惚れのする女でもあれば、男まさりもする女だ、自分に対してだけは妙に気を置くが、自分はあの女を嫌いではない、あれは悪女ではあり得ない、とあきらめもしたようです。
 そこで、お銀様は、なお周囲を狭くして、自分の眼に見、耳に聞くところの範囲での悪女――姦通した女、放火《ひつけ》をした女、どろぼうした女、殺した女、殺された女、およそ問題になるほどの淪落《りんらく》の女を調べる気になりました。
 夫を持ちながら情夫が数人あって、その情夫に殺されたというなにがし村の淫婦。
 夫を毒殺して男と逃げたという良家の家附きの女房。
 娘の婿を奪って、娘を川へ突き飛ばしたという後家さんの名。
 美人局《つつもたせ》で産を成したという、強者《したたかもの》。
 夫の情婦をつかまえて来て、焼火箸で突き殺したという武勇伝の女主人公。
 強姦されて出来たという子を殺した娘。
 曰《いわ》く、何、何……
 お銀様としても、多年、左様な淪落の罪悪史を聞いていないことはない。また人の口の端《は》から口の端へと上って成される三面記事を、かなり読ませられていないではなかったが、いざ、目的を以て調べ上げるということになってみると、その材料の蒐集にはかなり不足を感じてきたようです――そこで、例の女中共に強圧命令を下したり、小作連に酒を飲ませたり、甲府から来る石工の若いのを誘惑したりして、その口からとめどもなく、その醜い方面の風聞の募集に取りかかりました。
 この計画はかなり図に当ったようです。夜もすがら、酒を飲ませ、肉を喰わせつつ、思う存分に、エロチッシュを語らせて、それを一室にあって盗み聞くお銀様は、かくてまたこの事に得ならぬ会心と昂奮とを覚えたようです。
 それを聞取ったお銀様は、
前へ 次へ
全129ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング