のもないらしい。
これを突きつけられた老石工が、圧倒的に、驚愕と狼狽を与えられたほかに、文句の出しようがなかったのも無理はありません。
それを立てつづけにお銀様は、多くの石刷や、絵像や、堂塔の図面の類を持ち出し、石質がこうの、台座がああの、飾《かざ》り文《もん》はこれを参酌しろのと、あらゆるものを老石工に向って押しつけてしまいました。
かようにお銀様の高圧的な提出の上に、お銀様の家の実力と、多年のお出入りの恩顧というものが、老石工をして、否の応のを申し立てる余地のないことにしているのは申すまでもありません。
委細を了承して、老石工はひとまず辞して帰りました。
それから後、お銀様の屋敷の一角に、石材工場が設けられ、右の老石工が数名の助手をつれて、そこに詰めきりになったことは、まもないことでありました。
三十二
こうして、スフィンクスのプランと、工事の進行とを、遮二無二おしかたづけてしまったお銀様は、次に何を為す?
先日の火事に、藤原の家の焼け残ったもののすべてのうちに、文庫がある。
この文庫に没頭したお銀様が、更に記録の上から調べ物にかかりました。
何を調べる?
多分、近き将来に竣工すべき、この悪女塚のための施主として、その塚に祭るべき悪女の因縁と、経歴との考証に取りかかっているのでしょう。悪女塚の亡霊の主を、書巻の間から求めようとしているのでしょう。
まあ、見ていてごらんなさい、あの通り六寸に切った塔婆形の小木片に向って、いちいち、その書巻の間から探し出した亡霊の主の名前を、書きとめているではありませんか。
また、その一枚一枚を書くごとに現われる、あの面の色――というよりは、覆面の下から浮び出でるところのあの箇々の表情をごらんなさい、一種の痛快なる反抗に、筆のおののくのを感じませんか。たまらないほどの肉感的昂奮のために、眼の色が燃え立つのを認められませんか。
こうして、お銀様の周囲には、あらゆる参考書と、それから選び出され、或いはそれを聯想して浮び出でた人名が、筆に伝わって、六寸の小木片の上に走ります――
いったい、かような異常な昂奮によって、お銀様に選び出されて、その筆端に載せられている、有縁無縁《うえんむえん》の三界の亡霊というは果して何者?
それは狂熱的、昂奮的、反抗的であることは勿論だが、そのうちに、冷静なる史的根拠と、お銀様独断の順序が、一糸乱れずに存在していることはいるらしい。
昂奮と、反抗は、ただ表情として現われるのみで、仕事の事務としては、いささかも、狼狽と不規律は存していないようです。
まず、そのお銀様の筆端にのぼった最初の人の名から調べてみましょう。
六寸に切った木片の第一には「磐長姫《いわながひめ》」の名が書き記されてあることを発見した時に、これは、お銀様として、さもありそうなことで、いささかも人選を誤っていないことを、誰もさとるに違いありますまい。おそらく神代の日本婦人として、磐長姫ほどに、お銀様に共鳴する婦人は無いかも知れません。
妹姫、木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の名にし負う艶麗なるにひきかえて、極めて醜婦であった磐長姫――瓊々杵尊《ににぎのみこと》から恋せられた妹姫の添え物として、父から贈られたこの醜女の磐長姫《いわながひめ》。
その美なるを以て妹姫はかぎりなく寵愛《ちょうあい》せられ、その醜なるが故に姉姫は尊からつき返された、そうして笠沙《かささ》の宮を逐《お》われた醜い姉姫は、懊悩《おうのう》と、煩悶《はんもん》と、嫉妬のあまり、米良《めら》の山の中の深い谷に身を投げて死んだ――だが、かりにこれをお銀様の身に比べて、妹に恋の全部を奪われた身になった時、果してお銀様が内外共に、なんらの呪詛《じゅそ》と反抗の形式を外に現わさずに、わが身を殺すだけで甘んじ得られるかどうか、そこはわからない。だから、磐長姫の名を筆頭に上げたからといって、それが真の同情か、真の共鳴か、或いは充分の憐憫《れんびん》と軽蔑とが含まれているのか、それはわからない。
その次にお銀様は「須勢理姫《すさりひめ》」の名を書いている。
この女性は、神代に於ける第一の艶福家|大国主命《おおくにぬしのみこと》のために、嫉妬の犠牲となった痛ましい女性である。お銀様はこの女性の名を書いたけれど、嫉妬のどこに同情があるか、またこの女性のように、嫉妬の立場に置かれて、自分が命との間に出来た子を木のまたにくくりつけて置いて、姿を消してしまうほどに無執着になれるかどうか、わからない。また一概に須勢理姫を、悪女の中に入れてしまった標準のほどもわからないが、ただ、嫉妬その事だけが、悪女の最大資格の一つと認定してしまった独断かも知れない。
それより、やんごとなき身で、実の兄妹で深い恋に
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