この石工をお銀様は一間に招じて、そうして自分が手ずから認《したた》めたらしい、一枚の絵像を取り出して――無論、いかなる場合でも、お銀様は、人と面を合わせるに、覆面というものを外《はず》したことがありません。
甲府から呼んだ老石工に、一枚の絵像をつきつけたお銀様は、まず絵像そのものだけで、老石工を驚倒させてしまいました。
藤原家の勢力のほど、その家庭内の風評、ことにお銀様というものの存在について、この老石工は熟知している。さればこそ、こうして、迎いを受けると、時を移さず親方が出向いて来たものに相違ないが、この絵像をつきつけられた時は、さすがの老石工が唖然《あぜん》として、身ぶるいをしてしまいました。
右の絵像に現われた一種異様なグロテスク。これは多分お銀様の創作というものでありましょう。
今まで、神社仏閣の表に、多くの伝説あるグロテスクを刻むことに慣らされた老石工も、この画像には驚かされました。
「お嬢様、これはいったい、何様なんでございますか。わしが若い時分日光へ参りました時、あれにお若様というのがありましたが、そんなんでもございません。箱根の姥子《うばこ》には山姥の石像がございますが、それでもございません。染井の仙人堂には……」
「そんなものじゃありませんのよ、わたしの出鱈目《でたらめ》よ、強《し》いて名をつければ、悪女様というんでしょう」
「アクジョ様でございますか」
「ええ、仮りに悪女様とつけておいて下さい。親方、ひとつこれを丹念にこしらえ上げてみて下さい、もう立てるところは、ちゃあーんときまっていますから」
「なるほど――」
怖る怖る手に取り上げて、まぶしそうに老石工はその絵像をとって、つくづくと打眺めました。
巨大なる蛸《たこ》の頭を切り取って載せたように、頭頂は大薬鑵であるが、ボンの凹《くぼ》には※[#「くさかんむり/毛」、第4水準2−86−4]爾《もうじ》とした毛が房を成している。
巨大な、どんよりとした眼が、パッカリと二つあいていて眉毛は無い。
鼻との境が極めて明瞭を欠くけれども、口は極めて大きく、固く結んだ間へ冷笑を浮ばせている。頭から顔の輪郭を見ると、どうやら慢心和尚に似ているが、パッカリとあいた眼は、誰をどことも想像がつかない。
だが、そのパッカリとあいた、力のないどんよりとした眼が、見ようによっては、爛々《らんらん》とかがやく眼より怖ろしい。かがやく眼は威力を現わすけれど、この眼は倦怠を現わす。威力には分別を含むものだが、倦怠は侮蔑のほかの何物をも齎《もたら》さない。
お銀様のこしらえたのはスフィンクスです。
だが、古代|埃及《エジプト》の遺作に暗示を得たのでもなければ、摸倣したのでもなく、或いはまた直接間接に、その材料を取入れたわけでもなんでもありません、全くお銀様独得のスフィンクスだということが一見して直ぐわかる。
たとえば、復興時代のエジプト人が、母性守護の女神として表徴した、奇怪なる河馬女神トリエスの石彫像に似たと言えば言えるが、もちろんそれではない。
牝牛を頭にいただいたハトル女神の面? アプシンベル神殿の岩窟の四箇の神像のその一つ、クラノフェルの面に似ていると言えば言えるかもしれないが、それでありようはずのないのは、メンツヘテブの石彫がこれと似て非なるものと同じこと。
古代|埃及《エジプト》の彫像は怪奇を極めているが、超現実的ではない、いかなる怪奇幻怪なるものの裏にも、必ずや厳密なる写実がある。
お銀様のスフィンクスには、怪奇はあるが写実はないといってよろしい。
古代エジプト人は、死者の霊魂は必ずその彫像を借りて生きて来る、或いは彫像によって死者の霊魂を迎え取ろうという信仰があった。よし、それは迷信であっても、信仰の一つには相違ない。
そこで六千年以前から、人類生活を持っていた偉大なるハム民族は、その巨大なる想像力と、独得なる霊魂復活の信念を働かせて、多くの巨人的製作を、現代の我々の眼にまで残している。
お銀様のスフィンクスは、こんなものではない。
第一、お銀様には、その巨大なる想像力がない如く、殊勝なる霊魂復活の思想なんぞはありはしない。
そこで怪奇の目的が、大自然へのあこがれでもなく、大自然力への奉仕、或いは恐怖でもなく、ただそれより以降、六千年の人間の世にうごめく眼前の我慾凡俗の間の、呪いと、恨みと、嫉みとが、生み上げた復讐的精神の変形として見るよりほかは見ようがないらしい。
だから、彼女のスフィンクスの怪奇の対象は、彼女自身の、むしゃくしゃ腹の具象変形に過ぎないと思われる。
そこで、この絵像の与うるところの印象は、全体に於てノッペラボーで、部分に於て呪いで、嫉《ねた》みで、嘲笑で、弛緩《しかん》で、倦怠で、やがて醜悪なる悪徳のほかに何も
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