桜よ」
「大きいわね」
「大きな稚児さんね」
「本当に大きいわ、花が咲いたらさぞ見事でしょうね」
「花の時分には、ここでお稚児踊りがあるのよ」
「踊りましょうか」
「踊りましょうか」
「手をつないで、この桜のまわりで、皆さんで踊りましょう」
「いいこと、ね、踊りましょう」
「皆さん、よくって」
「ええ、いいわ」
「じゃ、踊りましょうよ」
「踊りましょうよ」
 女連は、おたがいに手をとり合って、お稚児桜を中に輪を作ってしまいました。自然、右の桜の根を枕にして熟睡に落ちていた米友ぐるみ、輪の中に入れてしまったものです。

「さあ、踊りましょう」
「よい、よい、よいとな」
「よいとさ」
「あら、よいきたしょ」
「及びなけれど――」
「ほら、よい」
「及びなけれど――」
「ねえ、ねえ」
「万松寺さんの――」
「はい」
「万松寺さんの――」
「はい」
「お稚児桜――」
「お稚児桜――」
「一枝|手折《たお》って――」
「一枝手折って――」
「欲しうござる――」
「欲しうござる――」
 初めは手をつなぎ合って、輪をつくり、三べんほど廻ってから、音頭で、はっと手を放し、「及びなけれど」で、左の手で、ちょっと長い袂をおさえて、右の手を上げて、桜の枝を指し、「万松寺さんの」で、クルリと廻って、お寺の廂《ひさし》を見込む形になり、「お稚児桜」でまた長い袖をたくし上げて、西の堂を前に、肱《ひじ》の角度を左右に開いた形もよい。
「一枝手折って欲しうござる」で、手をからげて水車のような形も艶《つや》っぽくてよい。
 この時ならぬ花見の催しに、あたり近所が急に春めいてきて、病葉《わくらば》の落ちかかる晩秋の桜の枝に花が咲いたようです。折柄、参詣の人の足もとどまり、近所あたりの人もたかって来る。
 踊り手も、それで一層、張合いになって踊りもはずみました。
 そこで、自然、宇治山田の米友も、ひとり長く甘睡を貪《むさぼ》ることを許されなくなりました。
 踊りに夢を破られた米友が、むっくりと起き上り、睡眼をみはると、このていたらくで、不覚にも眠りこけた自分というもののおぞましさを悔ゆると共に、いつのまにか、あたりの光景の花やかな変り方に驚きました。
 自分のねこんだ時は、四方《あたり》に人も無く、日当りのいい小春日和で、おのずから人を眠りにいざなうような、のんびりした桜の木蔭でしたけれども、眼がさめて見れば百花爛漫の園となってしまったような有様ですから、暫く米友は、夢の中の夢ではないかとさえいぶかりました。
 仰天して見ると、あたりこそ花を振りまいたような陽気ですけれど、仰いで見るところの稚児桜は、寝込んだ以前に見たのと、少しも変りません。
 枝が老女の髪のようにおどろに垂れて、病葉が欠歯のように疎《まば》らについているを見ると、彼は急に狼狽《ろうばい》をはじめました。
「いけねえ、つい知らずに一寝入りやらかしちゃった」
 狼狽してみたが、前も後ろもめまぐるしいばかりの踊り手で、その後ろはまた見物の人だかりで垣根を造られている。
 そこで、米友は、例の杖槍《つえやり》と、荷物に手を触れてみたが、これには異状がありません。
 本来、こうしたあわてぶりは、米友自身だけで単独に見せられると、かなり人目を惹《ひ》くのですが、この場合、誰しもひとり、このグロテスクに注目する者のなかったのは、集まっている程の者が皆、踊りに目を取られていたからです。
 けれど、たまに存在としての米友の狼狽ぶりに注意を向けたものはあっても、多分、これはこの踊りの女連の弁当担ぎか、下足番の小冠者に過ぎまいと見ただけのものです。
 そこで、米友は、誰のなんらの怪しみにもでくわさずして、手早く荷物を取って肩にかけ、杖槍を拾い取って、飛び立ったが、さて、行かんとする周囲は、踊り連の妙《たえ》なる手ぶりで、蟻も通わせぬようになっているから、さすがの米友も、その一方を突破するに当惑しました。
 手を放して、めぐっていた踊りの連中が、この時は、また手をつなぎ合って、ぐるぐるめぐりを始めたから、相手がこの連中であるだけに、米友としても、鉄砲玉のようにその一角を突き破って通ることに、いささか躊躇《ちゅうちょ》を感じました。しかしながら、その一角を突き破らぬ限りには決して、この囲みを解いて、自分の身を解放することができないと考え、そこで思いきって、突破にかかろうとしたが、さてまたそこで、いずれあやめと引きぞわずろう、というわけでもあるまいが、どこぞに突破口を求むれば、必ずその一角が犠牲に供される。米友としては、この踊りの連中のいずれに対しても、特別に信用と贔屓《ひいき》とを感じているわけではない。実際、こういうふうに、まんべんなく緊張して、いずれもいい気持になって踊っている時には、特にここを破ろうとの破綻《はたん
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