》頃から出て、暮方になって家に着く――主として熱田西浦東浦に行われる風習を、今日はどうした風の吹廻しか、城下の大路へ持ち出したものと見えます。
 これは、時にとってよい見物《みもの》で、道庵をいたくよろこばせました。
 思わぬ道草で時間をとり、広小路から末広町を通って、若宮裏へ廻って、門前町へ出で、それから少し行き過ぎて、後戻りをして、樅《もみ》ノ木《き》横町から、ようやく亀岳山万松寺の門前に着きました。
 道庵がお数寄屋坊主の案内で、庫裡《くり》から本堂へ案内されて行く間、米友は草鞋《わらじ》をとらず、外に待っている。
 ここでも多分、特別待遇をこうむることと思われる道庵。それを待つ間の時間はかなり長いものと観念した米友は、その間、彼はこの寺の境内をうろつき歩いてみる気になりました。

         二十七

 万松寺の境内を一わたり歩いて、白雪稲荷《はくせついなり》の前に来て稚児桜の下に、どっかと坐りこんだ米友は、しきりに眠りを催してきました。
 ついに、うつらうつらと、桜の根を枕にして、うたた寝の夢に入ったのは、米友としては、稀有《けう》の例です。いつもゆるみのない彼、責任感のことのほか強い彼。ましてこのたびは、尊敬すべき道庵先生のために、忠実なる従者であり、勇敢なる用心棒である上に、道中は、どうかすると、素行の上に於て、監督者としての役目をも、負わさせられている米友。いつも張りきった心と、油断のない目をみはっていたのが、今は珍しくこの稚児桜の下で眠りを催し、つい、うとうととして夢に入ってしまいました。
 このくらいの余裕はあってもよろしいし、なければ米友としても、やりきれない。それに今日は、老巧にして如才のないお数寄屋坊主の玉置《たまき》氏が、道庵の身の廻りには、附ききりで周到な斡旋を試みているし、ところは、この寺の奥殿の中に封じこめて、その下足は、確かに自分が保管して来ている。どう間違っても碓氷峠《うすいとうげ》の下で、裸松のために生死《いきしに》の目に逢わせられたり、木曾川沿岸で、土左衛門の影武者におびやかされたりするような脱線のないことは保証する。まかりまちがったところで、それは平《ひょう》を踏みはずし、仄《そく》を踏み落して、住職や、有志家連をして、手に汗を握らしむる程度のものに相違ないから、その点の安心が、米友をして仮睡《うたたね》の夢に導いたと見らるべきです。
 いくしばらく、昏々《こんこん》たる夢路を歩んでいるが、道庵お立ちの声は、容易にその夢を驚かすことがない。
 そこで、つい、うたた寝のかりねの夢が、ほんものになり、ほとんど熟睡の境に落ちて行きました。だが、それも深く心配するがものはない、従来、極めて夢そのものを見ることの少なかった米友も、近来はしばしば夢を見ることに慣らされているけれども、かつて不動明王の夢を見て、江戸の四方をグルグル廻らせられたほどに、夢をもてあますことはありません。
 それ以来、夢を見るには見るけれど、夢の後に来るものは驚愕にあらずして、多少の懊悩《おうのう》と懐疑とです。甚《はなは》だ稀れには歓喜であることもあります。最も困惑するのは、夢と現実との世界がはっきりしない、その当座だけのものでありましょう。
 彼は、どこぞでひとたび霊魂不滅の説を吹きこまれてから、それが全く頭脳の中に先入していて、生きている人と、死んだ人との区別が、どうもハッキリしない。有るようで、無いようで、今まで生きていた人が、死んで消え失せたとはどうしても思えないし、そうかといって、眼前、自分の前で死なせて、お葬《とむら》いまで立会った人が、もう一ぺん、生きて動いて来るとは、どうしても考えられないこともある。
 尊敬すべき道庵先生に、その霊魂不滅説の根拠にまで突込んで質問をしてみたこともあるが、先生の答が、要領を得るような、得ないようなことで、おひゃらかされている。
 とにかく、この男としては、どうしても死んだものが、もう一ぺん、形を取って現われて来るようにしか思われてならない。死の悲しみは味わわせられたが、それは、別離の悲しみの少し深い程度のもので、いつか、また会われるという感じが取去れないのが、今はもう信念というほどのものにまでなっている。されば、江戸で失った大切な馴染《なじみ》のお君という女に、このたびの道中のいずれかで再度めぐり逢えるように思われて、信ぜられて、ここまで来ている。
 多分、この時の熟睡の中にも、旅中しばしば繰返されたその夢に、ついさき、見せられた故郷の山河が織り込まれて、相変らず、生と、死と、現実《うつつ》と、幻《まぼろし》との境に、引きずり廻されているに相違ない。
 こうして熟睡に落ちている時――隠れ里の方から賑《にぎ》やかな一隊の女連が繰出して来て、稚児桜を取りまいて、
「稚児
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