「先生、どうなさいました」
「早く、早く、何とかしてこの男を、飛ばさねえように……」
「いったい、どうしたのです、先生」
「どうしたも、こうしたもねえ、この男の足をおさえておくんなさい――下へ飛ばせねえように……」
「何が何だか、わかりませんが」
といって、わからないなりに米友の足をおさえたのは、いまあがって来た別の一人――頭が丸くて十徳姿、お数寄屋坊主とも見られる――それはいつぞや、木曾の寝覚の床で、道庵と昔話の相手をしたその僧形《そうぎょう》の人体《にんてい》にも似ているようなのが、力を合わせて、必死と米友を取押えにかかります。
 二人の、騒ぐことによって、米友がほっと己《おの》れにかえりました。力を抜いて、ふり返った拍子に二人が後ろへころげる。
 おこりが落ちたように、きょろりと四方《あたり》を見返した米友。
 とりのぼせてまことに済まなかったという面《かお》つきではあるが、その上に漂う悲痛の色は消すことができない。

         二十五

 米友をなだめた道庵は、そこを一重下ってから、外を遠くながめて、
「友様、見な、肥後の熊本が見えらあ」
 ここで、道庵が突然、肥後の熊本、と言い出したのは、何のよりどころに出でたのか、意表外でした。
 呼び名が意表外であるのみならず、てんで方角がなっていない。その指している方向は三河蒲郡《みかわがまごおり》か、或いは知多半島の方面であろうところの空際を指して、道庵は突然、「肥後の熊本が見える」と言い出したものです。
 言われたままに、米友は、道庵の指した方向に、眼を向けることには向けました。
 多分、道庵の計略では、こうして途方もないことを言って、一時《いっとき》なりとも米友の眼界を転換させれば、その正直者は、それで心機の転換もできる、という心か。それで、蒲郡とも言わず、伊良湖崎《いらこざき》とも言わずに、肥後の熊本と呼びかけたのは、つまりこの尾張名古屋の城は名古屋の城であっても、現に自分が雲を踏むような心持で登臨しているこの天守閣は、肥後の熊本の加藤肥後守清正が、一世一代のつもりで、一手で築き上げたものだというその知識が絶えず頭にあるから、そこで、ついつい、肥後の熊本が飛び出したものであろうと思われます。
 事実、名古屋の天守閣が、いかに高かろうとも、そこから九州の一角まで見えようはずがあろうとも無かろうとも、それは問題にするに足りないし、道庵の頭が、かなり粗雑に出来ているところへ、米友の頭が、あまり率直に過ぎるから、この出鱈目《でたらめ》が両々、おかしくも、悲しくもないことに結着しました。
 二人の間では、問題にならなかった肥後の熊本を、聞き咎《とが》めたのが同行のお数寄屋坊主です。
「先生、もう、なんですか、あなたは、万松寺へおいでになってごらんになりましたのですか、ずいぶんお早いことですなあ」
 米友は、熊本が見える、見えない、ということをちっとも問題にしなかったけれど、聞捨てにすることのできなかった土地案内のお数寄屋坊主から、まじめに受取られて、道庵が少したじろぎ、
「いや、なあに、そのちっとばかり……」
とゴマかすのを、お数寄屋坊主はなおなお親切に受取り、
「もう、あれへお越しになりましたですか、実はこれから御案内をしようと存じておりましたところで……」
「結構ですな、どうぞ願いたいもんだ」
 どうもここのところの受渡しがしっくり行かなかったものですから、お数寄屋坊主が少しばかり解《げ》せない面《かお》をして、
「では、まだおいでになりませんのですか、万松寺へは」
「万松寺へ?」
「はいはい」
「万松寺……なるほど」
「稚児様の時分ですと、一段ですが、今はあんまり風情がございませんけれど」
 そこで三人は、また天守の一層を下る。
 下りながら、さすがの道庵も、ちょっと考えさせられました。
 自分が打ち出した肥後の熊本という問題は、米友の頭では問題になりませんでしたけれども、横合いから、それを受取った人が、かえって自分に問題を打ちかけたことになる。
 お数寄屋坊主が、委細のみ込んで反問した「ばんしょうじ」の符帳がどうしても道庵に解ききれない、その時は鸚鵡返《おうむがえ》しに「ばんしょうじ」と、こちらものみこみ顔に受取りはしたものの、前後がはっきりしていないのです。
「じ」という音が示す通り、寺の名には相違ないと判じたが、寺の名であってもなくても、それが肥後熊本と何の交渉がある。察するところ、この先生はこの先生で、また自分の言うところを聞きそこねたな。そうでなければ、穿《うが》ち過ぎて、こちらの頭にない取越し判断を加えてしまった。
 まあ、仕方がない、なるようにしかなるまい、万事、この坊主頭に任せておいてやれ、という気になりました。
 そうして、道庵は、また一層の段
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