前《めえ》にとっても、忘れられねえ伊勢の国のつい隣りまで来てしまったことを、今はじめて知ってみると変な気になるなあ」
「…………」
 米友は何とも答えない。四方窓の方へひときわ身を乗り出した時の顔色を見て道庵が、ああ、こんな生一本な男に、故郷の山を見せるのではなかった、と考えました。
 予期しなかっただけに、べらべらと、しゃべってしまったが、さて気がついてみれば、この男――と、そうしてこの生れ故郷の伊勢――というところには、容易ならぬ因縁の有することを、いま気がついた。
 第一、この男が、何故に故郷の伊勢の国を出て来たかを考えてみると、何故に故郷を出なければならなくなったかを思いやってみると、そうして故郷を出て、遥々《はるばる》と東海道を下って空《くう》をつくように江戸をめざして進んだ時の、心の中と、その道中の艱難《かんなん》を考えてみると、憂き旅を重ねて、ようやく江戸へ落着いて、それからまた甲州へ行って、また江戸へ戻るまでの間のこの男の出処進退を考えてみると、まあ、そんなこんなの艱難辛苦は持って生れたこの男への試練としても、その点は鍛えられている体質のおかげで、はたで見るより苦にならないものと割引をしても、この生一本の男には忘れんとしても忘れられない、癒《いや》さんとしても癒しきれない、魂の片割れを死なして、往きて帰らぬ旅路に送りこんでしまっておいて、そうして今、自分だけひとり二度と故郷の山をまともにながめられるものか、ながめられないものか――
 碓氷峠《うすいとうげ》の風車の前で、東を向いてさえあの通りだ。
 年甲斐もない道庵――その辺の事に察し入りがないというのはどうしたものか。たとえ、相手方から、あれが伊勢の国の山かいと聞かれても、なんのなんのと、そこは、お手のものでいいかげんにごまかして、感傷転換をやるほどの匙加減《さじかげん》はあってしかるべきものを、もう取返しがつかない。
「危ねえよ、友様、そう前へ出ちゃあぶねえよ、落っこちると下だぜ」
といって道庵は、窓から身をのり出した米友を、しっかり後ろから抑えました。
 抑えたけれども、米友の力と、道庵の力とでは、相撲にならない。
「うーむ」
 血走る眼に鈴鹿山を睨《にら》めて、米友はまた一段と乗り出しました。
「あぶねえよ――友様、冗談じゃねえぜ、落っこちると下だよ」
 道庵は、ほとんど必死で米友を抑えましたが、米友はそれを顧みず、
「うーむ」
 もう一寸前へのたり出す。
「友様、しっかりしな、ウソだよ、ウソだよ、ありゃ伊勢の国じゃねえんだ、まあ、こっちへ来な、こちらの方の、もっと景色のいいところをただで見せてやるから」
と言ったが、もう追っつかない。今更そんな子供だましの気休め文句を言ったって、焼石に水です。
「うーむ」
 この時、もう胸から上が、窓の外に出ている。
「いけねえ」
 道庵は必死にしがみつきました。
 それを物ともせずに、米友は、じりじりと窓の外へ身を乗り出す。その眼は鈴鹿山から伊勢の海あたりをながめながら、その面《かお》は朱のように赤くなって、そうして、口から泡を吐いている。
 どうするつもりだ、何かの無念と、過去の惨酷《さんこく》なる思い出のために、この男は正気を失って、ここから落ちることを忘れているらしい。道庵の言う通り、落ちれば下にきまっている。いくら米友の身が軽いからといって、上へ落ちる気づかいはない。
 落ちたところ――かりにこの出来事が、天守の五重目の上とすれば、石垣が東側の地形《じぎょう》から土台まで六間五尺あって、北西の掘底から、土台までは十間あり、天守は土台|下端《したは》から五重の棟|上端《うわは》まで十七間四尺七寸五分あり、東側から地形《じぎょう》は棟の上端までは二十四間三尺二寸七分あるから、いくら米友の身が不死身に出来ているからといって、もともと生身《なまみ》を持った人間のことだ、この高さから下へ落ちては、たまるものではない。
 それを知らないのか、この野郎、そうなった日には尾上山《おべやま》の時とは違って、もうおれの力ではどうすることもできないぞ。
 だが、この時の当人の身になってみると、その惨酷なる思い出の故郷の山を、こう眼前に見せつけられているよりは、ここから落ちて、微塵《みじん》に砕けて、消え失せた方が、遥かに痛快なのかも知れないのです。
 いずれにしても、危険の刻々に迫るのを見て取った道庵は、ほとんど畢生《ひっせい》の力を出して、抑えてみたが、前にいう通り、道庵の力では相撲にならない。前へ、前へと乗り出して行く米友の力――それはまことに怖るべきもので、さしもの道庵が周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、為すべき術《すべ》を知らず――
「誰か来てくれ――助けてくれえ」
 思わず絶叫した時に、あわただしく階段を登り来る人の足音
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