いのに、衰えたりといえども、徳川の流れ未《いま》だ尽きず、六十二万石の威勢、れっきとしている際に、無位無官の一平民――その一平民の中でも極めて値段の安い十八文の、わが道庵先生の意気揚々たる姿を、この天守の上に見出そうなどとは、あまりに思いがけないことでした。
第一、その時代に於て、いかにこの城地の警備が厳重であったか、ここへ来るまでの難関を、あらまし数えてみると、まず、城内へ入ることを特許されたにしてからが、この天守へ登るまでには、どうしても小天守の間を通らなければならぬ。
御天守の南に並ぶ小天守――それは土台の根敷東西十七間、幅十二間四尺、高さ約四間三尺の上に、二層の天守台が置いてある。これぞ、御天守に登る第一の関門であるから、出入りの禁容易ならず、御用を蒙《こうむ》った出入りの輩《やから》といえども、一応その旨を本丸番所に告げて後に入ることになっている。
鍵は御鍵奉行が預かり、内部にはまたそれぞれの分担があって、いちいち奉行立会の上でなければ開閉ができないことになっているはずです。
そこを、どうして、わが道庵先生が通過して来たか?
そこから、いよいよ本物の御天守へ来てからに、まず口御門《くちごもん》がある。
ここには長さ七尺、幅三尺五寸の扉が二枚あって、右の方の扉には長さ二尺四寸、幅一尺八寸の潜《くぐ》り戸《ど》がついている。門の表はすべて鉄で張ってある。この扉を開くには、まず潜り戸の輪、懸金《かけがね》の錠《じょう》を外《はず》して中に入って閂《かんぬき》を除いて、それから扉を左右に開くようになっている。この錠前の封は御城代の実印を捺して、それを箱に入れ、その箱封にはまた当番の御鍵奉行の実印が要る。そうして、その錠を検査するのは御本丸番の役目で、朝と、夕べと、晩と、三回ずつとある。
道庵先生は、この難関を、どうして突破したか?
口門を入ると桝形《ますがた》がある。ここには石樋《いしどい》があり、口元は千百二十四貫八百五十九匁の鉛を敷いてある。
桝形の奥にまた門があって、その開閉の順序次第は、前と同じことである。
道庵先生は、その関門を如何《いか》ように通過して、次なる御蔵《おくら》の間《ま》に入って来たのか?
この御蔵の間はちょうど、五重の天守閣の番外なる地下室に当る。ここには御金蔵《ごきんぞう》もあれば、井戸の間もある、御土蔵もあれば穴蔵もある、朱蔵《しゅくら》もある。井戸の間には深さ二十間、水深約一丈、底に黄金水を敷きつめたという御用井戸がある。そうして右井戸流しの間の東に階段がある、それを六段上って中台がある、その中台を九段上って、はじめて天守の初重の台に出るのだが、それを道庵先生は、どうして通過して来た?
第一、右の御金蔵の南には、封番人の番所があって、御天守を開く場合には必ず出役し、小人目付《こびとめつけ》一人八組、御中間《ごちゅうげん》が二人詰めているはずだが、その目をどうくらまして来たか?
さて、かりに、ここにはじめて天守の初重を踏んでみたとする。まず井桁《いげた》の間というのへ入る。中央の物置を通って水帳の間から、備附けの武器――たとえば二百張の弓とか、百本の長柄槍とか、唐金《からかね》の六匁玉の鉄砲とか、その鉄砲玉とかいうものの夥《おびただ》しく陳列された中を通って、再び井桁の間の東南隅に戻って、そこから階段を上って、第二重へ出る。
それから、ほぼ初重と同じほどな規模の第二重。
東側の中央の間の北側の段階から第三重に上る。
九室に分れた中の東北の室の北側の段階を登って、ここに第四重目に入る。
四重の東北の室の段階から五重の台。
五重はすなわち天上である。
ここに藩主の御成《おなり》の間《ま》がある。
これだけの関門を、道庵先生が、どうして突破して、ともかくも、その天守閣の上に立ったかということは、今に至るまで重大な疑問であります。
かりに、非常の特典があってみたにしてからが、初重まではとにかく、二重以上へは、御用列以下の者は藩主のお側衆《そばしゅう》としておともを仰せつかった者以外には絶対に上れないことになっているはずではないか。
それを、繰返すまでもなく、無位無官の一平民、しかもその無位無官のうちでも、最も安直な十八文を標榜して恥じないわが道庵先生が、どうして斯様《かよう》な特典を蒙ったかということは、わからない。まして、お客分として、この名古屋の城下へ来た道庵先生ではなく、注意人物の嫌疑者として、地下の獄に投ぜらるべく拘引されて来たはずの先生が、一躍して、天守の上へ舞い上って来ているということは、返す返すも、あざやかな脱線ぶりで、それを見る者、唖然《あぜん》として口のふさがらないのは無理もありません。
しかし、道庵自身にとって見れば、実にいい気なものです
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