、安房峠からおいでかエ」
それに兵馬が答えて、
「ええ、安房から平湯へ出て、昨晩、平湯へ泊り、こうして、わざわざ滝を見物に来たのです。そうして、神主さん、あなたは?」
「わしは、白骨から乗鞍を越えて来ましたよ」
「え、乗鞍を越えて……今時、あの山が越えられますか」
「は、は、は、もう少し時刻が早いかおそいかすると危ないところでしたよ、危ないといっても命には別条ないが、荒れを食うところでしたよ、それでも運よく、ここまで来ました」
「何しに、こんなところへおいでになったのです」
「滝に打たれに来ました」
「え、滝に……」
「この滝の味は少し荒い」
「たびたび、あなたはこの滝に打たれにおいでになりますか」
「たびたびやって来ますよ」
「そうですか、驚きました」
こうして、兵馬と鐙小屋《あぶみごや》の神主とが、心安げに会話をしているのを、傍に立って聞いている仏頂寺と、丸山の二人の面《かお》の苦々しさ。
ほとんど、憎悪というよりも一種の抑え難い苦痛を感じて、この神主の立去るのを待っているらしい。キリキリと早く行っちまえ、このロクでなし行者め! 不死身無感覚のトンチキめ! 行っちまえ、行っちまえ。そのくせ、憎悪と苦痛の中には、多少の恐怖さえ閃《ひらめ》いて、さすがの仏頂寺も、お得意の腕ずくでは如何《いかん》ともし難いものと見える。
幸いにして神主の方では、仏頂寺、丸山の存在には、ほとんど注意を払っていないらしく、兵馬にだけ淡泊に、
「わしはこれからまた乗鞍越しをして鐙小屋へ帰りますじゃ、お前さん、お大切《だいじ》においでなさい」
山路を鳥のように走り行く神主の後ろ姿を見ました。
実際、高山を見ること平地の如く、天変と気候とを超越すること金石の如き肉体でなければ、こんなことはできないと、兵馬は手を拱《こまぬ》いて、空しくその後ろ影を見送るばかりです。
そこで、仏頂寺と、丸山は、生き返ったようになって、
「いやな奴だなア」
「いやな奴だよ、行者というやつは、乞食同様な奴さ」
「あんな奴の前へ出ると、何ともいえぬ悪寒《おかん》がして、ゾッと総身の毛穴がふくれるよ、単に悪い奴なら、ブンなぐりもして懲《こ》らしてやるが、あんなのは全くいやな奴だ、なんだかイヤにまぶしくって、胸がむかついて、つい手出しをする気にもなれない」
「そうだ、そうだ、あ、胸が悪い」
仏頂寺と、丸山は、ついに嘔吐《おうと》をはじめてしまいました。
兵馬は、二人をなだめる役に廻り、
「どうだ、これで実証が出来たからひとつ、下りてみようではないか」
「いやいや、あんな奴の通った路や、汚した滝壺なんぞ、見たくも無《ね》え……」
噛んで吐き出すように丸山がいう。
「白骨で聞いた尺八と、あの神主めの面《つら》を見ると、生命《いのち》を削られるようだ」
仏頂寺が、踏んで蹴飛ばすように言う。それを兵馬は笑止《しょうし》げに、
「いや両君、君たち、もう少し深くつきあって見給え、あの神主はいい人間だよ、行《ぎょう》ばかりじゃない、なかなか人間味もあってね。世間も渡っているから、諸国の地理、人情、風俗にわたっていること驚くばかりだ――それで言うことが徹底して、往々聖人のいうようなことを言い出すよ――白骨であの神主に逢ったことが、拙者の今度の旅の、第一の獲物《えもの》であったかも知れない」
「ペッ、ペッ、ペッ」
「ペッ、ペッ、ペッ」
仏頂寺と丸山は、兵馬の神主讃美の言葉を聞くさえ、堪えられぬもののように、再び嘔吐を催すのを、ペッ、ペッと唾を吐いて、ごまかすと共に、充分に軽蔑の意を表し、併せて、兵馬に、もうこれ以上説くな、聞いていられない、という表情をする。
いよいよ、笑止千万《しょうしせんばん》に感ずる兵馬。
その時、仏頂寺が急に思い立ったように、
「どうだ、宇津木、これから白川郷《しらかわごう》へ行ってみないか、飛騨の白川郷というのは、すてきに変っているところだそうだ」
二十四
ここに不思議なこともあればあるもので、名古屋の城の天守閣の上に、意気揚々として、中原の野を見渡している道庵先生の姿を見ることです。
今時《いまどき》、尾張の中村で、豊太閤と加藤清正の供養を単独でいとなみ、容易ならぬ注意人物の嫌疑を受けて、脆《もろ》くも名古屋城下へ拘引されて来た道庵主従。
その嫌疑が晴れるまでは、相当の処分を受けて牢屋住まいをも致すべき身が、こうして青天白日の下に、名にし負う名古屋城の、ところもあろうに、天守閣の上へ立って、意気揚々として、遠く中原の空をながめているなんぞは、脱線ぶりとしても、あまりあざやかに過ぎます。
明治以後になって、あらゆる古城はみな解放されて、多くは遊客の登臨に任せている際にも、尾張名古屋の天守へは誰人も登ることを許されていな
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