「は、は、は、これこれ、これはまた古来、軍陣中無くてはならぬ一物となっている」
 二人は額をつき合わせて、この書物を見ながらしきりに笑っている。
 兵馬は、ただ苦々しい思いばかりしている。はしゃぎ廻りながら二人は冊子を見てしまうと、兵馬には見ろとも言わないで、そのまま、また鎧櫃の中へ抛《ほう》り込み、それでも感心なのは、いちいち二人でていねいに、もとの通り、鎧櫃の上へ、物の具を飾りつけて、薙刀も以前のところへかけ、そのついでに仏頂寺は障子を細目にあけて外を見まわし、
「いや、この分では大した降りもないようだぞ、明るくなっている、やむかも知れない。やむとすれば、この間に出立しようではないか。今から三人で押し出せば、少々遅着はするが飛騨の高山までは大丈夫。どうだ、宇津木、出かける気はないかい、多少の雪を冒《おか》しても、出立する気はないか」
「そうさなあ」
 兵馬も、ちょっと、返答に困りました。それは今日は籠城《ろうじょう》のつもりでいたから、天気に望みがあり、好きでも嫌いでも、こうなった退引《のっぴき》ならぬ同行者がある以上、ここに逗留をしていなければならぬ理窟はない、といって、この二人の亡者と共に、雲の如く、煙の如く、人間の如く、幽霊の如く、出没進出を共にする気にもなれない。
「出かけよう、出かけよう、こうしていたって仕方がない。さて出かけるとすれば、いったいどっちへ行くのだ」
 彼等は、出かけることが先で、その目的があとになる。行きつきばったりとはいうけれど、その行きつきが、臨時で、無方針になっている。兵馬のは、とにかく、方針が定まっているが、彼等は出没自在になっている。
 だからこの場の風向きで、兵馬が飛騨の高山を主張すれば、むろん彼等もそれに同ずるだろうし、ことに仏頂寺の故郷だという越中方面に爪先が向けば、彼等は喜ぶだろう。
 だが、その時、丸山勇仙が、趣の変った異説を一つ出しました、
「せっかく、平湯へ来たものだから、今日は一日ここで休息をして、この附近で名立《なだ》たる大滝を見て行こうじゃないか、高さ三千尺、飛騨の国第一等の大滝が、これから程遠からぬところにあるそうだ、それをひとつ見物して、明朝出立のことにしたらどうだ」
 この提議が容《い》れられて、今日はとにかく逗留ということになり、仏頂寺、丸山は、肉を煮て酒という段取りです。

         二十三

 肉を食い、酒を飲み、飯を食い終った時分、天候も見直したようだから、三人が揃って、ここから程遠からぬ飛騨の平湯の大滝を見に出かけます。
 乗鞍よりの山路を行くと、山腹が急に二つに裂けて、大滝を不意打ちに開いて見せられた三人は、
「あっ!」
と言いました。
 よく旅人がいう、那智を見る時は那智を見に行く心になり、華厳をたずねる時も華厳をたずねる心で行くから、予想より以上に驚くこともあり、驚かぬこともあるが、飛騨の平湯の大滝は、不意打ちに現われるから驚かされることが多い。
 水量に於ては華厳に優り、高さに於ては中段以下が山谷に遮《さえぎ》られて見えないから、ちょっと際限を知り難い。
「あっ!」
と言って三人が立ち尽すこと多時、
「豪勢だな、おれは那智は知らんが、たしかに日光の華厳以上だよ」
と丸山勇仙がまず驚歎の声を上げる。
「おれは那智も、華厳も、知らないから、でもまずこれがおれの見たうちで日本一かな」
と仏頂寺弥助が、眼をすましながら、
「尤《もっと》も、おれの国の越中の立山の中には、とても大きいのがあるそうだが、おれはまだ見ない」
と言いました。
 兵馬も実際、この大滝は予想外に大きかったことを感歎しているらしい。そこで、仏頂寺は兵馬を顧みて、
「宇津木君、君は諸国を廻って歩くが、これに匹敵するやつを見たかね」
「僕もまだ、華厳も、那智も、見ていないですからな」
「そうか」
 そこで、この三人のうちの最も滝通は、丸山勇仙ということになる。
「ここにいては、滝壺がわからんからな、何とも言えないが、水の豪勢なことはたしかに華厳以上だ。華厳の滝は、うらから元まで、ちゃんと一目に見ることができるが、この滝はそうはいかない、高さのことは華厳に比して何とも言えないが、土地の言伝えでは三千尺あるといっている」
「三千尺」
「うむ」
「三百丈だな」
「左様」
「間に直すと……」
「五百間さ」
「五百間――一町を六十間にすると」
「八町と少し……だが、三千尺はうそ[#「うそ」に傍点]だろう、唐の李白《りはく》の算盤《そろばん》でもなければそうは割り出せない、常識から言ってみてな。三千尺といえば、山にしたところでかなり高い山だからなあ」
「李白は三千ということをよく言いたがる」
「とにかく三千尺としておいて、さて滝というものは、直立して目通りを見るものでもない、高所から俯して見
前へ 次へ
全129ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング