山間の僻陬《へきすう》にありながら、尊王の歴史に古い光を持っていることです」
 北原は一種の昂奮を感じながら、信州伊那の郷土を論じ、天竜峡のことに及んで、ぜひ一度、天竜峡を見においでなさい、御案内いたしましょうと言って、はじめて相手が、相手ということに気がついて、まずい面《かお》をするのを、お雪が傍からとりなして言いました、
「うちの先生は風景を御覧になることはできないけれど、風景のお話を聞くことは大好きで、風景のお話をして上げると、それが忽《たちま》ちその夜の夢になりますそうで、よい話を聞かせていただけばいただくほどよい夢が見られる、そこで、わたしも、なるべく先生によい夢を見せて上げるように、知っているだけのお話はして上げたり、本を読んで上げたりするつもりですけれども、わたしだけでは、とてもその材料が足りません」
 お雪としては、それを単純なとりなしのつもりで言ったのでしょうけれど、北原は単純に聞き捨てることができませんでした。
 この二人の間は何だ。
 炯眼《けいがん》な北原は早くも、このバツの合わない二人の呼吸を見て取らないわけにはゆかないと共に、いよいよ解しきれないものが、頭の中を躍起とさせるようです。
 この二人の間が兄妹でないことは、ここへ来た当初から見えきっているし、主従ではない、先生呼ばわりをしているが、あの男はいったい、お雪ちゃんの何の先生なのだ――
 美少年録を臆面もなく読み合う二人の師弟関係――
 笑わせるな。
 北原のこういった観察が、全宿中へパッとひろまったのは、なにも北原が吹聴《ふいちょう》したときまったのではないが、二人がこの座敷を去ってから後のことでありました。

         二十

 これより先、白骨の温泉を立ち出でた宇津木兵馬は、飛騨の平湯をめざして進んで行きました。
 白骨から平湯まで、僅か四里の道とはいえ、もう少し雪でも深くなれば、通れない。
 雪でなくても天候不順の時は、いかなる山荒れが出現しないとも限らないが、天気は極めてよし、そして途中ひょこりと、中の湯まで行くという猟師と出逢い、その猟師がすすめに従い、道草気分で、中の湯の温泉へちょっと立寄ってみる余裕まで持つことができました。
 中の湯の温泉には、宿屋というものはありません。
 板を屋根にした掘立小屋が、空しく朽ちて、湯は川の端、巌の間の到るところに湧いている。兵馬は、こんな温泉に一日――もし許すならば十日でも二十日でも滞在して、思うさまこの巌の間の湯につかっていたいというほど、いい気持のした温泉でした。
 案内した猟師は、そこから吹き出すのも、ここにたまっているのも、みんなお湯ですよ、まあ、もう少し進んでごらんなさい、天然の湯滝がありますから。湯滝は白骨にもありますが、あれよりズット大きい――といって、渓間を導いて、兵馬を二つの滝が女夫《めおと》のように並んでいるところへ連れて来ました。
「どうです、この二つの滝はみんなお湯でございますよ」
 それは高さに於て四間、幅に於て三尺ほどの、絵に見たような自然の滝。近くよってさわってみると、全くの温泉です。
 白骨にも湯の滝はあったけれど、あれは湯を引いて、人に打たせるように人工が加えてあったし、それと大きさから言っても、これとは比べものにならないのに、これは天然の滝そのものが全部の、自然の湯として現わされているのですから、兵馬は最初、滝の近く寄って、わざわざ腰を押しのべて触れてみようとしたが、ついに、たまり兼ねて行李《こうり》を捨て、帯刀を脱し、一切の旅装をかなぐり捨てて、その滝壺の湯に飛び込んでしまいました。
 かくて、思う存分に、その湯にひたっていると、猟師は、そのあたりの板小屋に腰を卸《おろ》して網を張りにかかるらしい。
 網を張るというのは、こうして待構えていると、猿やその他の動物が、湯につかりに来ることがある。それを見ていて、あるものは手捕りに、あるものは銃殺、あるいは槍殺もするらしい。稀れには弓矢も用いることがあるらしい。
 ここで、思うさまの悠浴《ゆうよく》を試みた兵馬は、身心一層の爽快を覚え、網を張る猟師とは別れて、ひとり目的地へと急ぎます。
 今は路傍に美しい高山植物のたぐいこそ咲いてはいないが、山林、谿流《けいりゅう》、すべてが清麗で、顧みれば、四周《まわり》の深山の中には、焼岳の噴煙がおどろ髪のように立ちのぼる。途中一つ信州松本への廻り道があっただけ、安房峠《あぼうとうげ》を越えてしまえば、平湯《ひらゆ》までは二里に足らぬ道。
 前途の不安が全く除かれてみると、深山を楽しむの快感が身に沁《し》み渡り、いい知れぬ勇気が湧いて来る。
 兵馬は、この快感と、勇気とをもって、安房峠を打越えながら、「万法一に帰す、一何れに帰す」ということを考えさせられました。これ
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