るほど話しぶりが進んで来たが、そこへ来ると、どうしても動かなくなってしまいました。
 そこで、北原賢次がもて余しきった時に、お雪ちゃんが、
「先生、あなたが、大和の十津川とやらで、そんなお怪我をなすったということは、わたしは今まで存じませんでした」
「いいえ、お雪ちゃんにも話して上げたことはあるはずですよ」
「それでもお聞きした覚えがございませんもの」
「たしかに話して上げたはずなのを、お前さんが忘れてしまったのだろう」
「そうでしたか知ら……」
 お雪が無邪気に首をかしげた時に、北原賢次が三度四度、呆気《あっけ》にとられてしまいました。
 賢次は眼を円くして、なんだかかだかわからないような気配で、お雪と竜之助の方を、かなりの距離のあるところを、忙がわしく眼を急転させて、言句がつげないような有様です。
 陪席《ばいせき》を仰せつかっている村田も、どうも板につかないような気持に堪えられません。
 そこで、この両室の空気がいやに変なものになってしまったのを、竜之助は眼が悪いから見て取るわけにはいくまいが、お雪ちゃんという子が、そのままはいられないからとりつくろう気になって、
「上方《かみがた》の方では、しょっちゅう、いくさ[#「いくさ」に傍点]ばかりしているんですってね」
と言いますと、
「しょっちゅうというほどでもありませんがね」
と北原が答えました。
「いやですね、いくさ[#「いくさ」に傍点]なんて」
「戦《いくさ》も、時と場合によりけりでね、大義名分のために戦わなければならぬこともありますからな」
「戦《いくさ》をしないでも、何とか話合いがつきそうなものじゃありませんか」
「だって時と場合ですからね、今に上方《かみがた》の戦が江戸までやって来ますよ、お雪ちゃん」
「そうなると、日本中が、いくさ[#「いくさ」に傍点]になっちまうんですね」
「まず、そんなものです、お雪ちゃんの故郷だという甲州なんぞも、当然捲き込まれてしまいますね」
「でも、この白骨までは来ないでしょう」
「さあ、日本中が戦《いくさ》になっても、ここまでは舞い込んで来ますまいね、第一、大砲《おおづつ》が通りませんからな」
「ほんとうに、わたしたちは仕合せです、いつまでもこの白骨におりましょう、ねえ、先生、あなたも、たとえ、お眼がなおっても、二度とふたたび戦に出ることなんぞはおよしあそばせ」
 この時、北原賢次が、むらむらとしてお雪ちゃんの面《かお》を見てしまいました。これではせっかくバツを合わせようとした彼女のきりまわしが何にもなりません。そういう事に一向に頓着しないお雪ちゃんは、今度は北原の方に向いて無邪気な笑顔、
「北原さん、あなたも、ずいぶん、喧嘩っ早いようなお方ですけれど、戦《いくさ》なんぞにお出になるのはおよしなさい」
と言いました。
「だが、お雪ちゃん、おたがいに白骨温泉の中へ白骨を埋めに来たわけでもありますまい、いつか、それぞれの国と仕事とに返らなければならないでしょう」
「そう言えば、そんなものですけれど……どうかすると、一生こんなところで暮らしていたいような気持もしますね」
 その時、北原は、「お雪ちゃんのように相手さえあればね」と言ってやりたい気分になって、その言葉が咽喉《のど》まで出ましたけれど、初対面の何とも知れぬ隣室の人に気を置かれて、だまって、思わず村田と面《かお》を見合わせましたが、やはり、その辺にお気づきのないお雪ちゃんは、
「ねえ、北原さん、あなたのお国は、やはりこの信州の伊那《いな》だとおっしゃいましたが、あちらのお話をお聞かせ下さいませ。いつかここの白骨温泉の木曾踊りのことが話に出ました時、あなたは伊那の飯田には、あれに負けない伊那踊りがあるといって御自慢になりましたでしょう、その伊那踊りですか、伊那節ですか、それを一つお聞かせ下さいな。ね、先生、ここでそれを歌っていただいてもようございましょうね」
「ははあ、伊那節をわしにうたえとおっしゃるんですか、北原の無粋を見かけての御註文ですね。もとより歌ったり踊ったりは、こちらのガラじゃありませんが、尤《もっと》もガラで歌ったり踊ったりするわけじゃない、過ぐる夏には、とてもすごい体格をした所謂《いわゆる》イヤなおばさんなるものが存在して、すごい体格は体格ながら、肉声は甚《はなは》だ美にして、よく音頭取りをつとめ、白骨温泉の女王の地位を贏《か》ち得ていたというくらいですから、ガラが違っても歌えない、踊れないという限りはないが、拙者なんぞは無茶です。ただ、伊那節の歴史と文句だけは、木曾の御岳山《おんたけさん》にも負けないものがあります、なかなか雅趣があっていいのがあります……だが、わが伊那の、天下に向って誇るべきことは、そんなところにあるのではない、天竜峡の絶勝と並んで、わが伊那の地が
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