は兵馬にとっては、かなり重い公案のようなものですけれど、兵馬は往々、ふいにこんな公案にひっかかって、分相応の頭を練りながら、旅路を行くこともあるのです。
ほどなく兵馬は、平湯の温泉に着きました。
ここは白骨と違って、周囲の峡間も迫ってはいず、田野も相当に開けて、白骨のように宿屋一軒がすなわち峡間の一部落をなすというようなわけではなく、数十戸の人家が散在して、人里の気分豊かに猟犬の声も相和する、至極穏かで平らかなところだと感じました。
そこの「水石《すいせき》」という宿で草鞋《わらじ》をぬぐ。
浴客も相当にありました。
二三日は、とにかく、ここで落着いて、これから当然、この国の首都、高山の町をおとずれて、尾張方面へ行く、それに順路を取ろうとする。
自分の通された宿の座敷に、鎧櫃《よろいびつ》があって、具足《ぐそく》が飾りつけられてあることに、兵馬は、ちょっと好奇心を起し、まず長押《なげし》にかけられた薙刀《なぎなた》から取って、無断に御免を蒙《こうむ》って、鞘《さや》を外して見たけれども、錆《さ》びてはいるし、さのみ名作とも思われませんでした。
だが、素朴な湯槽《ゆぶね》のうちの二三の浴客とは、忽ち話敵《はなしがたき》となりました。それは高山あたりから来た、新婚らしい夫婦者、それから近在のお婆さんと、病気がありそうにもないに湯治だと言っている四十男、それと家の番頭、雇人、それらが、すべて隔てのない混浴でした。
兵馬が白骨から来たと聞いて、その四十男が、好事《こうず》な眼を向けて、
「白骨じゃ、このごろ、お化けが出るって評判ですが、本当でござんすかね」
と言いました。
「お化け、そんな話は聞かなかったよ――」
兵馬が答えると、
「こちらでは、もっぱら、そんな評判でございましたよ」
「ははあ、冬籠《ふゆごも》りの人も二三いるにはいましたけれど、お化けのことは誰も言いませんでした」
人からお化けと問いかけられて、はじめて兵馬は、なんだか白骨の思い出に、寒さを感じたようなものです。
その事。兵馬自身こそお化けにはつけつ廻されつしているではないか、仏頂寺、丸山の亡者はいわずもあれ。
そのほかに、何が白骨にいたか。何にもいないから手を空《むな》しうして、こうしてやって来たのだが、さていたかと言われてみると、考え直してみたくなる。
ここ、平湯で、平々淡々として、明るい気分の湯に浸っているのとは、周囲も、気分も、全然違い、ここへ来て見るとはじめて、たしかに白骨には何かいたという気分がしてならない。あの短笛の音も変じゃないか。あの娘――あの冬籠りの人々――二階から三階にわたる陰気なる夜の音。
上から射す初冬の光線は極めて明るかったが、その明るさも、いま考えてみると杲々《こうこう》とかがやき渡る太陽の光の明るさではなかったようだ。白骨の月夜は名物ときいたが、月の光が昼間まで照り残っているということはあるまい。
さりとて、鐙小屋《あぶみごや》の神主殿の面《かお》が、白日の下に、明る過ぎるほど明るかったと思うのも、ものの不思議。
やはりお化けが出なかったかと言われて、はじめて兵馬は物《もの》の怪《け》に襲われた心持で、
「ははあ、白骨にはお化けが出るなんて、そんな噂《うわさ》があるのですかね」
「ありますとも、もし……出なけりゃ不思議なもんだと、こっちではみんな、そういっておぞけをふるっておりますよ」
これは湯槽の中の輿論《よろん》のようで、この地では誰ひとりとして、白骨にお化けが出るということを信じないものはないようです。
「そうでしたかね、我々はあそこにいても、一向お化けというものを聞きもしなかったし、無論、見もしなかったが、いったい、そのお化けというのは、どんなお化けですか」
「いくつも出るそうですが、そのなかで、高山の淫乱後家《いんらんごけ》と、男妾《おとこめかけ》の浅公……」
と四十男が浅黒い面《かお》に、思いのほか白い歯並を見せてニヤリと笑いました。
「ははあ、高山の後家さんと、なにがしの若者、それが化けて出るというのですか」
「そりゃ見た人があるから、たしかなもんですが、そのほか、いろいろな化け物が、この冬は白骨に巣をくっているってますから、こちらからは誰も参りません。尤《もっと》も、ふだんでさえ冬は人の住まない土地ですから、行かないのはあたりまえですけれど、今度のお化け話はこの夏の終り頃からはじまりました」
「そうですか、拙者は、ちょっと道に踏み迷うたという形で、あの温泉場へ参り、直《ただ》ちにこうして引上げて来たのですから、お化けにお目にかかる暇《ひま》が無かったものと思われます、もう少し逗留《とうりゅう》していたら、そのお化けが挨拶に来たかも知れません」
兵馬が存外、あきたらず受け流すのを、一同
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