は鯨の夢を見ました。
 港の外の渺々《びょうびょう》たる大洋を、巨大なる一頭の鯨が悠々《ゆうゆう》と泳いでいる。ふと見るとその傍に可愛らしい鯨がついている。
 大きいのは母鯨だろう。母子は平和な海に、愉快に泳いでいる。
 と、それを見つけた漁師が、けたたましく叫ぶ。みるみる無数の鯨舟が、その二頭の鯨を囲《かこ》んでしまった。
 漁師共がいう、まず子鯨を殺せ、親鯨はひとりでに捕れる、と。
 そこで取巻いた二十|艘《そう》ばかりの八梃櫓《はっちょうろ》の鯨舟が、銛《もり》を揃えて子鯨にかかる。
 子鯨は負傷する、親鯨はそれを助けんとして奮闘する。鯨舟はこっぱのように動揺する。
 母鯨は、子鯨の上にのしかぶさって隠そうとする。子鯨は、負傷に苦しがって浮き出すと、鰭《ひれ》の上に載せていたわる。その隙を見て銛が飛んで来る。
 親鯨は、鰭と身体《からだ》との間に、子鯨をはさ[#「はさ」に傍点]んで海の底深く沈もうとするのを、銛がその母鯨を刺す。烈しく怒った鯨の震動で、漁舟が二艘|微塵《みじん》に砕ける。
 ついに、親と子は離れ離れになった。漁師共は得たりと、半殺しにしてしまった子鯨を、綱で結んで舟へ引き上げようとする。
 深く沈んだ母鯨の姿が、見えなくなってしまった。
 とうとう、親の方を逃がしちゃったと漁師共が口惜《くや》しがる。
 逃げたんじゃない、沈んでいる、沈んでいる、と叫ぶものもある。
 外洋《そとうみ》でなければ鯨は、死んでも沈むものじゃない、と怒鳴るのもある。
 逃げたのは男親だ、男の親鯨は逃げるが、母鯨というものは、決して子を捨てて逃げるものじゃ無《ね》え、そこらにいる、そこらにいる、とガナる者もある。
 一旦は逃げても、直ぐに来るから用心しろ、用心してつかまえてしまえ、と声をしぼって警《いまし》める者もある。
 そこで、海岸が暫く静まったが、やがて、すさまじい海鳴りがすると共に、果して大鯨が奮迅《ふんじん》の勢いで、波をきってやって来た。
「そら来たぞッ」
 漁師共の銛《もり》と、船とは、麻殻《おがら》のように、左右にケシ飛んでしまう。
 一気に、子鯨のつながれてあるところへのして来た親鯨は鰭《ひれ》でもってハッタとその綱を打ちきってしまった。そうして子鯨を抱いて、まっしぐらに外洋の方に逃げ出すと、早くも鯨舟が港の出口をふさいでいる。
 そこで出鼻をおさえられたところを、また無数の鯨舟がやって来て、周囲から攻め立てて、とうとう子鯨を取り返してしまった。
 怒気、心頭に発した母鯨は、行手をふさいだ港口の鯨舟数隻を、粉々にたたきこわすと、そのまま再び外洋に逃れ去ってしまった。
 漁師共もあきらめて、その子鯨だけを大切な獲物《えもの》にして引上げる。
 それからまた暫く海が平和であったが、やがて海鳴りがする。
 港の外を見ると、またやって来た。母親がそこまで来たには来たが、以前の奮迅の勇気は無く、港の外へ来て悲しげに泣く。海が急にわき立ったかと思うと、母鯨は、燈台が崩れたように海中に直立して、真白い腹を鰭でたたきながら、「子を返せ」「子を返せ」と狂いまわる――その哀求の声。
 茂太郎は、その声でガバと起き上ってしまいました。
 外で子をよこせ、子をよこせと哀願している声は、自分を迎えに来たもののように、茂太郎の耳に響きます。
 もう寝られない。寝られないとなれば、この少年は無意味に辛抱して、強《し》いてじっ[#「じっ」に傍点]としていることは一刻もできない性質です――鯨が呼んでいる。鯨ではない、自分の母親が呼んでいる。母親でもないが、誰か自分を呼んで、早く帰れ、早く帰れと呼んでいる。この少年は矢も楯もたまらなくなって、飛び起きてしまいました。
 ややあって、雨をおかして石堂原をまっしぐらに走るところの清澄の茂太郎を見ました。
 笠をかぶり、蓑《みの》をつけているけれども、それは茂太郎に相違ありません。彼は物に追われたように走るけれども、別段、追いかけて来る人はない。
 けだし、寝るに寝られず、じっとしては一刻もいられぬ茂太郎は、番兵さんの熟睡の隙《すき》をねらって飛び出して来たものだろう。そうでなければ番兵さんだって、いったん泊めたものをこの夜中、雨の降るのにひとり帰してやるはずはない。
 そんならば、蓑笠はどうしたのだ。
 さいぜん、古畑の畦《あぜ》で、あの案山子殿《かかしどの》をがちゃ[#「がちゃ」に傍点]つかせていたものがある、多分、あれをそっと借用したものに違いない。
 興に乗じての脱走は常習犯だが、他人の持物を無断で借用して、その人を困らせるような振舞は、かつてしたことのない茂太郎だから、無人格な案山子殿のならば、無断借用も罪が浅いと分別したのかも知れません。
 雨を衝《つ》いて茂太郎は、蓑笠でまっしぐらに走りました。
 しかし、なにも悪いことをしたんでなければ、そう、まっしぐらに走らないでもいいではないか。番兵さんの熟睡を見すまして逃げて来たんなら、そう物に追われるようなあわただしい脱走ぶりを、試みなくともいいではないか。
 だが、この少年は、なお驀然《まっしぐら》に走りつづけることをやめない。どうしても後ろから、追手のかかる脱走ぶりです。
 果して、後ろに足音がする。足音がバタバタと聞え出して来た。スワこそ!
 しかし、仮りに番兵さんに追いかけられて、つかまってみたところで、何でもないではないか――
 その以外の、誰かこの辺のお百姓にでも怪しまれて、取捉《とっつか》まってみたところで、タカが子供ではないか――
 狼が出たって、熊が出たって、コワがらないこの子が、何に怖れてこうもあわただしく走るのか、了解のできないことだ。
 だが、その後ろから、起る足音の近づくを聞くと、茂公はなお一層の馬力をかけて走る。
 後ろのは、得たりとばかり追いかける足音が、いよいよ急です。
 前の走る者の了簡方《りょうけんかた》もわからないが、後ろから追いかけて来る奴の心持もわからない。おーいとも言わず、待てとも呼ばず、ただ、足をバタバタさせて追っかけて来るばかり。
 しかしながら、この競走の結果は大抵わかっています。何をいうにも茂太郎は、子供の足です。もうどうにもこうにも、あがきがつかなくなったと見えて踏みとどまり、追いかけて来る後ろの足おとを、恨めしそうに、闇の中から眺めて、
「叱《し》ッ、叱ッ」
と言いました。これもたあいのないこと。ここで、「叱ッ、叱ッ」と小さな口で叱ってみたところで、辟易《へきえき》する相手ならば、ここまで狼狽《ろうばい》して逃げて来るがものはないではないか。茂太郎は下へ屈《こご》んで、右の手で石を拾い、
「叱ッ、叱ッ、お帰りというのに」
 再び叱りながら、その石を、闇の中へめがけて投げ込みました。
 手ごたえはあるにはあったのです。茂太郎の投げた石で、追い迫った足音はハタと止みました。
 相手も相手です、このくらいの威嚇《いかく》で辟易するくらいなら、追いかけるがものもないではないか。
 そこで、茂太郎は、またしても足を立て直して、まっしぐらに走り出すと、つづいて、例の足音が、ばたばたと追いかける。
 走ること暫くにして、どうしてもまたあがき[#「あがき」に傍点]がつかなくなって、
「叱ッ、叱ッ」
 しかしながら、もう駄目です。この時、後ろなる或る物から、完全に追いつかれてしまっていました。

 追いつかれたものを見れば、なんの人騒がせな、暗闇《くらやみ》から牛の本文通り、これはチュガ公でありました。
 チュガ公の後を慕って来るのを、或いは疾走によって、或いは威嚇によって追い返そうとしたが、ついにその効なきことを知ると、やがて妥協が成り立ちました。
 その辻堂を出立する時、チュガ公の背には一枚の古ゴザが敷かれて、その上に跨《また》がる蓑笠《みのかさ》の茂太郎――こうなるとチュガ公は、茂太郎のために、伝送の役をつとめんとして来たようなものです。
 雨の夜道も、苦にはなりません。
 夜が明けると、その雨さえも霽《は》れてしまいました。山道は全く尽きて野路になっている。後ろからのぼる朝日を背に受けて、秋の野路を西南の方に向いて行くチュガ公の足は、遅いもののたとえになる牛の足のようではなく、茂太郎を乗せたことによって、こおどりして進むものですから、道のはかどること。
 茂太郎もいい心持になると、また例の出鱈目《でたらめ》が出ないではやみません。
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チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
そらそら
そちらを行っては
あぜ道へ落っこちる
こちらをあゆびなよ
あれあちらの
赤い花の咲いている
お寺の前を通りなよ
チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
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 チュガ公は、その赤い花の咲いているお寺の前を歩むと、
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あさっから
しっかりぬきい
てらんぬわ
またがいどもが
おだされにくる
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 房州人だけが知っている歌。それを茂太郎が寺の前でうたうと、寺から餓鬼共《がきども》が二三人、首を出して、やあい、やあい、牛小僧やあい、とはやし立てる。
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チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
静かにあゆびなよ
そんなに急《せ》かずとも
おくれはしないよ
もうあとが二里だよ
近路《ちかみち》をせずと
館山大路《たてやまおおじ》を
真直ぐにあゆびなよ
そらそら
あちらから
村の小旦那《こだんな》が来る
よけて通しなよ
村の小旦那が来る
チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
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 村の小旦那が、めかしこんで通りかかるのと、すれちがいになった時、茂太郎は、
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小旦那どんが
どこへ出るにも
羽織きて
那古北条《なこほうじょう》は
いいとうりだのんし
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 これは他国者でも少しはわかる歌。茂太郎から歌われて、小旦那なるものは、悪い面《かお》もせず、にっこと笑《え》む。
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チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
そらそら
そちらを行っては
海へ落っこちる
もう少し
こちらをあゆびな
竜燈の松が見えるよ
洲崎《すのさき》は近いよ
お嬢さんが待っている
金椎君《キンツイくん》も待っている
チュガよ
チュガよ
チュガ公よ
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         十二

 かくて、まだ朝といわるべき時間のうちに、早くも洲崎《すのさき》の、駒井の陣屋まで帰って来てしまいました。
「御苦労だったね」
 このごろ、新築された厩《うまや》の前へ来て、茂太郎が牛から下りる。
 厩には馬がいない。いないはず、これは駒井と田山とが、轡《くつわ》を並べて出て行ってしまったあとだから――
 牛から下りた茂太郎は、牛の労をねぎらって、これに、かいば[#「かいば」に傍点]を与え、水を与え、雨に濡れた身体をぬぐうてやり、
「御苦労、御苦労、もういいからお帰り」
 たてがみのあたりを撫でて軽く押してやると、チュガ公は無雑作《むぞうさ》に動き出して、可愛ゆい眼をパチクリする。
「番兵さんが心配するから、早くお帰り」
「さよなら」
 チュガ公は、言われたままに、とっとともと来た方へ走り出す。
「道草を食べないでおいでよ」
 チュガ公は振返って、眼をパチクリする。
「はいはい、承知致しました」
 とっとと走り出す。珍客を送るために出て来て、使命を全《まっと》うしたことの喜びを以て、いそいそとして帰る。
 行くも、帰るも、チュガはチュガだ。
 この分では、六里の道を無事に帰って、番兵さんに、ただいま送って参りました、との挨拶をするに違いない。
 チュガ公を帰してやった茂太郎は、足を洗い、濡れた着物をぬいで、台所の隅へ行き、乾いたのと着替えてから、こっそりと、おまんまを食べてしまいました。
 ずいぶん、お腹《なか》がすいていたものと見える。
 おまんまを食べているうちにも、主人が不在とはいえ、この家の森閑《しんかん》たることよ。
 金椎は庖厨《ほうちゅう》を司《つかさど》っているが、それはいてもいなくても、物の音
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