からは超越している。
お嬢さん――まだ自分のお部屋で寝ているのか知ら。金椎さんの驚かないのは仕方がないが、お嬢さんは、いるんならば、わたしが帰って来たのを気がつきそうなもの。多分、朝寝をしているんだろう。殿様も、田山先生もいないものだから、全く気兼ねをする心配がとれたので、それで思いきり朝寝をしていらっしゃるのだろう。
おまんまを食べてしまうと、茂太郎は兵部の娘の部屋、つまり自分たちと同居の部屋を訪れて、
「お嬢さん」
こう呼びかけて戸を叩いてみたけれど、返事がありません。
「お嬢さん」
ふたたび呼んで、戸を開いて見たが、その人がおりません。
「おや?」
せっかく、雨を冒《おか》して帰って来たのは、鯨の親に呼ばれたのみではない、早く家へ帰って見たいからだ。一つは、お嬢さんに心配させまいとの心づくしだ。それだのに、相手はいっこう張合いがなく、こっちがあせって来るほど、待ちこがれもなにもしやしない。
茂太郎は室内へ入って、隈《くま》なく見たけれども、何者の姿をも見出すことはできません。
ただ、たった今まで、ここに人がいた形跡はたしかにある。人がいたというのは別人ではない、お嬢様その人がたしかにいたことは、残されて、半分ばかり始末をしかけた化粧道具の、取散らかしが説明する。
では、相当のおめかしをして、どこぞへ出かけて行ったのか。近いところならばかまわないが、もしかして、わたしのあとを追いかけて、ふらふらと出かけられたんでは困る。
「お嬢さあ――ん、いないの?」
茂太郎が第一級の声を張り上げて呼ぶと、思いがけないところで、
「は――い」
と返事がある。
返事をしたところは離れの物置で、それはこのごろ手入れをして、田山白雲が画室にあてているところであり、その返事の主は、兵部の娘であることに相違がありません。
茂太郎が、そこへ飛んで行くと、兵部の娘は畳の上へ、画帖を取散らかして、それを、腹ばいの形になって、顋《あご》をおさえながら見ておりました。
「茂ちゃん、どこへ行っていたの」
「お嬢様、ただいま」
挨拶があとさきになりました。
「何?」
兵部の娘が落ちつきはらって、わきめもふらずに絵を見ているものですから、茂太郎が傍へ寄って来てのぞきこむと、
「ずいぶん、いろんな絵があるから、すっかり、見てしまおうと思って」
なるほど、一枚描きの絵や、仮綴じの画帖や、絵巻や、まくりものが、あたり一面に散らかしてあって、室の一隅の草刈籠《くさかりかご》は、大塔宮《だいとうのみや》がただいまこの中から御脱出になったままのように、書き物が溢《あふ》れ出している。兵部の娘が、今ながめている画巻も、その籠の中から引き出して来たものでしょう。
「あたしにも、見せて頂戴な」
茂太郎は、兵部の娘の傍へ、その頬と頬とがすれ合うばかり寄って来て、左の手を無雑作《むぞうさ》に、兵部の娘の肩から首を巻くように廻して、同じ画巻をのぞき込む。
「いやな先生ねえ、なんでもかでも、見る物をみんなかいちまうんだよ」
「何がかいてあるのさ」
「ごらん、なんでもかんでもこの通り、わたしたちのすること、なすことを、みんなかいてしまってあるんだよ」
「見せて頂戴」
「そんなに引張らないで、ここへ置いてごらんな、一緒に見たって、見えるじゃないの」
「あれ、お嬢さん、浜を歩いている後ろ姿があらあ」
「後ろ姿なら、いいけれど、ごらん」
一枚をめくると、
「あれ、お嬢さんがお化粧している」
「そうよ、お化粧ならまだいいけれど、ここをごらん」
「やあ、お嬢さん、裸になって行水をしているところ……」
「いやじゃありませんか、いつのまに、こんなものをかいたんでしょう。そっと隙見《すきみ》をして、こんなところをかいちまっていながら、知らん顔をしているんですから、ずいぶん、人の悪い白雲先生よ」
「だって、絵かきの先生だもの」
「絵かきの先生だって、お前、人が裸になっているところなんか、かかなくってもいいじゃないの……女が人に肌を見せるなんて、恥じゃありませんか」
「だッて……」
「だッて、何さ……ちゃんと、お化粧をして、着物を着かえたところならば、誰が見たって恥かしくはないけれど、行水をしているところなんかかかれちゃ、たまらないわ。こんなのを人前にさらされちゃ、わたし立つ瀬が無いわ」
「だッて……女だって、裸が恥かしいとはきまらないでしょう、布良《めら》のあまの姉さんたちをごらんなさい、いつでも裸でいるじゃありませんか」
「あれは違いますよ、あれは商売だから、海へもぐるのが商売だから、裸でいたって誰も笑やしないけれど、わたしなんぞ、商売じゃありませんもの」
「だって、風俗だから仕方がないでしょう」
「何が風俗さ……」
「先生は風俗をかいているんだから。助平《すけべい》のつもりでかいていなさるんじゃない、芸術のためなんでしょう」
「生意気をお言い。何にしたって、こんな恥かしいところをかかれちゃいや」
兵部の娘は手をさしのべて、筆立から筆を抜き取り、墨を含ませると、ズブリとその絵を塗りつぶしてしまったから、清澄の茂太郎が、その勇敢に、あっ! とたまげました。
「茂ちゃん、お前のことも、ずいぶんかいてありますよ」
「わたしは、かかれたってかまわない」
「それから、駒井の殿様も、金椎《キンツイ》さんも、マドロスさんも、みんないいかげんのところがかきうつしてしまってあるのよ、ほんとに絵かきの先生に逢っちゃ、たまらないと思うわ」
「商売なんだもの」
「こっちの方をごらん、造船所から、竜燈の松の方まで、風景がすっかり写し取ってあるのよ」
「商売だもの」
「いくら商売だってお前、こんなに、一から十までかいておいて、知らん顔をしているのは憎いわねえ……およしよ、茂ちゃん、うるさいわよう」
茂太郎が、あんまり摺寄《すりよ》って来て、肩から首筋へかけた手を十分に深くして、下に置いてある絵をのぞき込むものだから、兵部の娘は、負うた子に髪をなぶらるるようにうるさがって、首を振るのを、茂太郎はいっこう遠慮をしないで、
「それはお嬢さん、殿様だって、あんな立派なお船をこしらえながら、知らん顔をしていらっしゃるじゃないの、何でも、仕事をする人はだま[#「だま」に傍点]ってしてしまいますよ」
「ませたことをお言いでないよ。ホントに、茂ちゃん、お前という子は、このごろイヤにませ[#「ませ」に傍点]てきてしまって、始末にいけないよ。お放しってば、痛いから」
「このくらいのこと、痛いもんですか」
「痛いか痛くないか、人のことがわかって……そんならお前、こうしても痛くないかえ」
「痛い!」
茂太郎は横腹をツネられて、痛い! と叫んだけれども、それでも首に捲いている手は、ちっとも放さず、
「お嬢さん、そんな邪慳《じゃけん》なことをするもんじゃありませんよ」
「何が邪慳です、甘たれ小僧」
「そんなに叱れば、あたい、また出て行ってしまってやるから」
「どこへでも、出ておいで」
「今度、出て行けば帰らないよ」
「勝手におし」
「いいの?」
「いいとも」
「あたいが帰らなくても?」
「あいさ」
「ああそうでしょう、あたしがいなくても、殿様がいらっしゃるからね」
「まあ……」
兵部の娘は、ちょっと横を向いて睨《にら》む真似《まね》をしながら、
「なんてこま[#「こま」に傍点]しゃくれたことを言うんでしょう、お前の言うこととは思えない」
「だって、お嬢様は、以前は一晩でも、あたいがいなければ淋しがったり、恋しがったりしていたくせに」
「まあ、いいからお放し……ね、いい子だから、あんまり、しつっこ[#「しつっこ」に傍点]いと人に嫌われますよ」
「ねえ、お嬢さん、あっちへ行きましょうよ」
「どこへさ」
「あっちへ」
「あっちとはどこさ。まあ、この絵をみんな見てやりましょうよ、知らん顔をして、こんなにかき散らしているのが、ホントに憎らしいから」
「あたいは絵なんか見たくない、それに留守の時に、人の物をだまって見るなんて、悪いから」
「だって、お前、向うだって、だまって人の姿をうつしたりなんかして、知らん顔をしているんだもの……おたがいさまよ」
「行きましょうよ、あっちへ」
「どこ[#「どこ」に傍点]だっていいじゃないの」
「でも、居慣れたところの方がいいでしょう」
「やんちゃな子だねえ……」
その時、窓の下の海岸を、人が走り出して、
「鯨だ、鯨だ、鯨が来たよ!」
室内の二人は、この声におどかされてしまいました。
十三
この近海へ、鯨が見えたということは珍しい報告である。珍しければこそ、人があんなに騒いだのだろうと思われる。
二人もまた、この物置から走り出して、海辺へ出て見ると、鯨だ、鯨だと言ったのは多分、「黒船《くろふね》だ、黒船だ」と叫んだその聞きそこねか、そうでなければ、早まった人たちの間違いだろうと、一目でそうわかりました。眼の前に、一艘《いっそう》の大きな黒船が来ている。
眼の前といっても、それは海上かなりの遠くではあるが、ここからは眼と鼻の先、浦賀海峡の真中に、三本マストの堂々たる黒船が、黒煙を吐いたままで錨《いかり》を卸している。それを見て最初叫んだものが、「黒船、黒船!」と言ったのを、寝耳に水のように聞いた漁夫《りょうし》たちが、「鯨だ、鯨だ!」と間違えたのだろう。
黒船と聞いて、人心が動揺しないわけにはゆきません――鯨ならば、七浦《ななうら》をうるおすということもあるが、黒船では、当時の日本国を震愕《しんがく》させるだけの価値はある。
尤《もっと》も、この辺の地点では、黒船を見ることにかなり慣らされてはいるが、それでも、いま、眼の前に現われたほどの黒船は、あまり見なかった黒船であります。
木造、螺旋式《らせんしき》、三本|檣《マスト》、フリゲット――長さは無慮二百四五十尺、幅は三十尺以上四十尺の間、排水は、玄人《くろうと》の目で見て三千トンは動かぬところ――
それが悠々《ゆうゆう》として浦賀海峡の真中、江戸の湾口に横たわっているのですから、船を見るに慣れた浦人《うらびと》の眼をも、驚かさないわけにはゆきません。
眼を驚かすばかりでなく、心を戦《おのの》かしむることは、浦々の人が浜辺に出て指さし罵《ののし》りさわぐ面《かお》の色を見ても、明らかです。
もうすでに番所番所から、役向役向に伝えられたに相違ない。昨日出張の目附《めつけ》は、さだめて早馬を飛ばせて江戸へ注進に及んでいる最中でしょう。館山、北条あたりの海上からも、幾多の早舟が飛び出すところを見れば、船手からの注進をも急ぐものと見える。
一方、黒船の方を遠眼鏡で見ると、バッテイラを卸しはじめたようです。
スワこそ、バッテイラで乗込んで来るぞ、うかうかしていた日には、元寇《げんこう》に於ける壱岐《いき》対馬《つしま》の憂目《うきめ》をこの房州が受けなければならぬ。用心のこと、用心のこと。
こちらに大砲は無いか、砲台の守り手に抜かりはないか。しかしまた、いかに毛唐《けとう》だって、単に薪水を求めに来たらしいのを、無暗にぶっ払うも考えものだ。尋常に交渉に来たら、尋常に挨拶するのが人間同士の作法だろうじゃないか。だが、言葉がわからない。言葉が通じないために、飛んだ行違いになりがちである。どうしたものだ――
そうそう造船所の殿様――は、外国の言葉を知っておいでなさる、うむ、それよりも、あすこには、このごろ本物がいた、本物の毛唐人が来ていた、いい幸いだ、あれを立合わせろ、あれを立合せて、聞くだけは聞いてやってからのことがいいじゃないか、そうして、どこまでも図々しければ図々しいように、こっちにも出ようがあろうというものだ。
「ナニ、あいにく、造船所には殿様も、本物もいないって……みんな揃ってどこへか出かけてしまったって、冗談じゃない、こういう時は、ペロが手柄を現わすじゃないか。ちぇッ、何だって今日に限って、留守なんぞになるんだ、ちぇッ」
海辺に立って騒ぐもののうち、気の利《き》いたのは、気が利き過ぎて、
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