ところがね、江戸へ連れて行かれて帰されなけりゃ、たいてい運命の程はきまっているよ」
「どうきまっているの」
「つぶされて、食べられたのさ」
「誰に……」
「誰に食べられたか知れねえが、人間に食べられてしまったのさ」
「憎い人間だなあ、誰があの牛を食やがったんだ」
「御用だから、仕方がないよ」
 チュガ公の母親が、乳を取られに江戸へ引いて行かれて、そのまま帰されないのは、乳だけの御用では済まなかった証拠である、と言って、その他の多くを語らない。
 それと同時にこのチュガ公が、フラフラ歩きをするようになったのだ、と語り聞かされました。

         十

 夕飯前、茂太郎は、番兵さんについて、牧場の中を一めぐりして歩きました。
 茂太郎のおなじみは、チュガ公のみではありません。
 チュガ公は、名附親としての浅からぬ因縁《いんねん》があるにはあるが、その当時からここで茂太郎と知合いになっている動物は――茂太郎が来なくなってから後に生れた動物はいざ知らず、その以前からの馴染《なじみ》は、早くも茂太郎の訪れを見て宙を飛んで集まって来ました。あるものは多少遠慮して遠くから、しげしげと茂太郎の姿をながめ、ある者は無遠慮に、最初チュガ公のした如く、なれなれしく身をこすりつけます。
 茂太郎は、そのいずれに対しても、これをいたわり、愛するの意志を示しました。人間ならば歓呼の声を挙げ、挨拶と、握手とに忙殺されるところでしょう。
 かく、牧場の牛と馬とに愛せられたのみならず、数頭の番犬までが、祝砲でも放つかの如く、高く吠《ほ》えて走って来ました。そうして茂太郎が去ってからのち生れた犬どもは、小首をかしげて、仔細はわからないが、事の体《てい》の容易ならぬのに感動を催しつつあるもののようです。
 その中で、茂太郎が特別の興味を以て見たことの一つは、牛が、鹿の子に乳を飲ませて養っていることであります。
 番兵さんの話によると、多分猟師に追われたものだろう、一頭の子鹿がこの牧場へ逃げこんだのを、そのまま一頭の乳牛にあてがって置くと、それがわが子と同様に乳を与え、鹿の子もまた、牛を母としてあえてあやしまないで毎日暮しているとのこと。
 それを聞いて茂太郎が、不意に妙なことを、番兵さんに向ってたずねました。それは、
「番兵さん、ここへオットセイは来ないかい、オットセイは」
 番兵さんが唖然《あぜん》として、暫く口をあけていましたが、
「オットセイは来ないよ、オットセイの来べきところでもなかりそうだ」
「そんならいいが番兵さん、もしオットセイが来たら、殺さないようにして帰しておやり、子供がかわいそうだから」
 番兵さんは、茂太郎の申し出を奇怪なりと感じないわけにはゆきません。
 この際、特にオットセイを持ち出して来るのが意外なのに、そのオットセイに親類でもあるかの如く、懇《ねんご》ろに、その訪れた時の待遇を頼むのがオカしいと感じないわけにはゆきません。しかし、オットセイなるものに就《つい》ては、この番兵さんも、名前こそ聞いているが、その知識はあんまり深くないものだから、
「鹿の子でも、オットセイでも、来れば大切《だいじ》にしてやるが――茂坊、オットセイは魚だろう、山にいるものじゃなかろう、北の方の海にいるお魚のことだろう、だからオットセイが、牧場へ逃げて来るなんてことは、有り得べからざることだよ」
「いいえ、違います」
 茂太郎は、オットセイの知識については、何か相当の権威を持っていると見えて、首を左右に振って、番兵さんの言葉をうけがわず、
「違いますよ、オットセイはお魚じゃありません、獣《けもの》ですからね」
「そうか知ら」
 オットセイについて、茂太郎よりも知識の薄弱らしい番兵さんは、勢い、茂太郎のいうところに追従しないわけにはゆきません。事実、オットセイは海にいるということは聞いているが、それが魚類であるか、獣類であるかを、決定的に回答のできるほどの知識を持っていないからです。
 やや得意になった茂太郎は、
「海にいたって、オットセイは魚じゃないんだ。鯨だってお前、番兵さん、鯨だってありゃお魚じゃないんだよ、山にすむ獣と同じ種類の動物なんですから」
「え……」
 番兵さんが眼をまるくして、今度はうけがいませんでした。
「御冗談《ごじょうだん》でしょう……鯨が魚でないなんて、木曾の山の中で、鯨がつかまったなんて話がありますか」
 オットセイについては、自分の知識の不明な点から、圧倒的に茂太郎の言い分に追従せしめられた形でしたが、鯨が魚でないなんぞと言い出された時に、番兵さんがうけがいません。のみならず冷笑気分になって、
「熊の浦で、鯨の捕れたなんて話はあるが、木曾の山の中に、鯨が泳いでいたなんという話は聞かねえ」
 木曾の山を二度まで引合いに出しました。そこで茂太郎も応酬しないわけにはゆきません。
「でも、学者がそいったよ」
 この場合、茂太郎は、自分を当面に出さないで、学者を矢面《やおもて》に立たせました。
「学者? ドコの学者が、鯨が魚でないなんていう学者は、唐人の寝言だろう」
「でも、立派な学者がそいったよ」
 茂太郎は、どこまでも学者を楯《たて》に取る。これは名は現わさないが、多分、駒井甚三郎のことではなかろうかと思う。
「ばかばかしいよ、学者が言おうと、誰が言おうと、そんなことを本当にする奴があるものか、論より証拠、まだ鯨の本物を見ないんだろう」
「ああ、見ないけれど、立派な学者がそう言うから」
「立派な学者もヘチマもあるものか、本物を一目見りゃわかることだよ、百聞は一見に如《し》かずだあな」
 今度は番兵さんが得意になりました。
 茂太郎がいかに大学者を引合いに出そうとも、現に見ていることより強味はない。自分は幾度も鯨の本物を本場で見ている――という確乎《かっこ》たる自信があるから、番兵さんの主張は、さすがの茂太郎も、如何《いかん》ともすることはできない。しかしまだ、どうしてもあきらめきれないものがあると見えて、
「マドロス君もそいったよ、鯨は魚じゃないんだって」
「お前がだまされてるんだよ、からかわれてるんだよ。もう、そんな話はおよし、鹿の子もそんな話は聞くのはイヤだといって、ああして親牛の腹へもぐりこんで寝てしまったあ」
 茂太郎は、まだまだ、あきらめきれないものがあるけれど、相手が受けつけないのだからやむを得ない。
 そこで鹿の子が、親ならぬ親を親として、その懐ろに安んじて眠り、牛の親が、子ならぬ子を子として、二心なく育てる微妙な光景を見ていると、この分では、狼の子が来ても、牛はそれを憎まずに愛し得るだろうと思われる。
 平和なる動物、忍従の動物、沈勇の動物、犠牲の動物、労働の動物、博愛の動物、そこで古来神として祀《まつ》られた動物。
 ただいまの論争は忘れて、それをしげしげと見入った清澄の茂太郎、
「オットセイじゃ、ああはいかないんだぜ」
 この子は、オットセイに対して、よくよく執着があるものと見える。そうでなければ、鯨で言い伏せられた腹癒《はらいせ》に、先方の知識の薄弱なところをねらって、オットセイで論鋒を盛り返そうとするのかも知れない。
「ねえ、番兵さん、牛はあんなに他人(?)の子でも大切《だいじ》にして育てるけれど、オットセイの親はなかなかあんなことはしないんだぜ。オットセイの親は、なかなかああはいかないんだからな」
「オットセイの親が、どうしたというのだ」
「オットセイの母親というのはね、番兵さん、自分たちの餌《えさ》をさがすために、三十里も遠くの海へ出るんだとさ、そうして帰って来ると、内海《うちうみ》に置いて行かれたオットセイの子が、お乳を飲みに寄って来るが、オットセイの子は、自分の母親がドレだかわからないものだから、どの母親にでも行ってかじりつくが、母親の方では、自分の子供だけにしかお乳をやらない、ほかの子供がかじりつくと突き放してしまう、だから、外海《そとうみ》へ餌を取りに出たオットセイの親を人間がつかまえると、その子は餓え死んでしまうのだって……だから今では、外海でオットセイを捕らせないことになっているんだって」
 茂太郎は、マドロス仕込みであろうところの、オットセイの知識を物語りました。

 牧場、牧舎の見廻りが一通り済んで、小舎《こや》へ帰って、二人水入らずの晩餐《ばんさん》の後、番兵さんは一個の曲物《まげもの》を、茂太郎の前に出して言う、
「茂坊、薬物《くすりもの》だから少しお食べ」
 それは色の白い、ベタベタした透油《すきあぶら》のようなもの。飴《あめ》のようで飴ではない。あんまり見慣れないもので、第一、食べようからしてわからないから、遠慮をしていると番兵さんは、耳かきのような杓子《しゃくし》を取添えて、
「これは、チュガ公の母親がこしらえた白牛酪《はくぎゅうらく》だよ、薬物だから、少しお食べ」
 すすめられるままに、その匙《さじ》のような杓子ですくい取って、少し食べてみたが、甘くも、辛くもない、薬物だというから、苦くもあるかというにそうでもない、妙に脂《あぶら》っこい、舌ざわりの和《やわ》らかな、口へ入れているうちに溶けてしまいそうなものだから、
「何だい、番兵さん、これは、味もなにも無いじゃないか」
「薬物だからね」
「何の薬になるの」
「何の薬ってお前、白牛酪なんてのが、滅多《めった》に口へ入るものじゃないよ」
と、そこで番兵さんが、茂太郎に、白牛酪の講釈をして聞かせました。
 白牛酪は、この牧場の白牛に限ったものである。この牧場の白牛から搾《しぼ》り取った乳が、すなわち白牛酪となって、天下無二の薬品と称せられているのだ。
 それは主として将軍の御用であるほかに、極めて僅少《きんしょう》の部分が、大名その他へわかたれる。
 売下げを希望する者は、江戸の雉子橋外《きじばしそと》の御厩《おうまや》へ、特別のつてを求めて出願する……その貴重なる薬品を、番兵さんの役得とはいえ、茂太郎はここで振舞われたことを、光栄としなければなるまい。
 光栄は光栄かも知れないが、甘くも、辛くも、なんともないことは争われない。そのはず、白牛酪《はくぎゅうらく》とはすなわちバタのことで、茂太郎は、パンにもなんにもつけないバタを、高価なる薬品として振舞われているのだから、ばかばかしいといえば、ばかばかしいこと。
 長い間、嶺岡牧場《みねおかぼくじょう》の白牛酪は、斯様《かよう》に貴重な霊薬としての取扱いを受けておりました。
 バタを食べさせられて、変な面《かお》をしていた茂太郎を、番兵さんは、流し目に見ながら、鯨のことを話し出しました。
 それは、魚なりや、獣《けもの》なりやというさいぜんの論争の引きつづきではなく、主として自分の見聞から、鯨は子を愛する動物であるという物語であります。
 いずれの動物でも、子を愛さない動物はないが、ことに、鯨ほど子を可愛がる動物はあるまいとの実見談を、番兵さんが、茂太郎に話して聞かせました。
 子鯨を殺された親鯨が、毎日その時刻になると港外までやって来て、或いは悲鳴をあげ、或いは直立して威嚇《いかく》を試みつつ、子供を返してくれと訴うる様のいかにも哀れなのに、その子鯨を殺した漁師が、熱病にかかって死んでしまった、という話を聞いているうちに、茂太郎が、親というものは、動物でさえもそれほど子を愛するものだから、自分も当然親に愛されていなければならないはずなのに、その経験も、記憶も無いということが、この場合になって、茂太郎の興をさましてしまいました。
 そんな話で、かれこれして眠りについた時分、外はさらさらと時雨《しぐれ》の降りそそぐ音。
 それがかえって、しめやかな夜を、一層静かなものにし、時々海の彼方《かなた》でほえるような声が遠音に聞える。
 半島国とはいえ、ここから海はかなり遠かろうのに、あの吼《ほ》えるのは海の中から起るようだ。
 それが気のせいか、鯨がやって来て「子をよこせ」「子をよこせ」と叫んでいるように、茂太郎の耳に聞える――

         十一

 その夜、茂太郎
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