白雲が、一方《ひとかた》ならず悶《もだ》え出したようです。
 駒井甚三郎は、田山の手から再びその紙片を受取って、英語の発音で、一度スラスラと読んでから、改めて、
「つまり、この短文の意味は、政府の目的というものは、人民と相尊敬し合って権力を行使せねばならぬものだ、権力を濫用《らんよう》してはならん、服従の無き自由は混乱であって、自由の無き服従は奴隷である――とこういう意味であります」
「なるほど」
「これはウイリアム・ペンという人の言った言葉のようですが、そのペンという人が何者か、いま思い当らない」
「毛唐でしょう」
「西洋人には違いないが、イギリス人か、フランス人か、或いはアメリカの人か、どの程度の人か、どうもわからないが、この短文の意味はこれだけで明瞭です」 
「そうですね――もう一ぺん、その翻訳をお聞かせ下さい」
「とにかく、馬に乗りましょう」
 駒井は右の紙片をかくしにハサんで馬に乗ると、田山もつづいて馬上の人となり、かくて二人は、また以前のように九十九里の浜の波打際を並んで歩み出し、そこで駒井は言いました。
「権力を用うる政府の最大主眼は、人民と相敬重《あいけいちょう》することにあって、権力の濫用《らんよう》から、人民を確保しなければならぬ、服従無き自由は混乱であって、自由なきの服従は奴隷である――まあ、こんな意味です」
「ははあ、つまり、政府と人民とを対等に見、服従と自由とを、唇歯の関係と見立てたのですな」
「まあ、そんなものです、イギリスか、アメリカあたりの政治家の言いそうなことで、立派な意見です」
「しかし、駒井さん、西洋では、そんな理窟が通るかも知れませんが、日本では駄目ですね」
と白雲が、キッパリと言いました。
「なぜです」
「なぜといったって、政府と人民とが相敬重し合うなんて、そんなことは口で言ったり、筆で書いたりすれば立派かも知れないが、事実、行われるものじゃありません」
「どうしてです」
「人民なんていうものは、隙《すき》があればわがままをして、我利我利《がりがり》を働きたがるものですから、うっかり敬重なんぞをしてごらんなさい、たちまち甘く見られて、何をしでかすか知れたものじゃありませんよ、政府は政府として、威厳を以て人民に臨まなけりゃ駄目ですよ」
「依《よ》らしむべし、知らしむべからずですか」
「そうですとも。そりゃ一般の程度が進むか、人間がズッとわかっていれば、どこまで尊敬信用してもかまわないが、まだ大多数の人民なんていうやつが、さほどたいしたものじゃありませんからな、やっぱり政府は、力でグングン押していかなけりゃ駄目ですよ。御覧なさい、なんのかんのというけれども、水野越前や、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》が押えていた時分は、徳川幕府も力がありましたけれど、昨今のように、アメリカも尊敬しなけりゃならん、ロシアも一目置いた方がいい、諸国の浪人者に対しても、そう強圧ばかり加えてもいかん、大藩の御機嫌を損ずることはなおさら……こう政府が八方四方尊敬ばかりしていた日には、国が立ち行きませんよ。服従なき自由とか、自由なき服従とか、服従と、自由を訓練なき国民に使い分けをさせようなんぞとは、氷水を煎《せん》じて飲ませようというようなものです。国民の服従だけでいいじゃありませんか、政府は治むべし、人民は服従すべし、それだけでたくさんですよ――もう少し一般が自覚というのをもって、他から治められずとも、自ら治むることを知ってきた時節は格別、今のところは薄っぺらな人気の煽動でどうでもなるんだから、尊敬だの自由だの言わん方がいい、権力の濫用より、民力の濫用の方が厄介千万です」

         三

 二人は議論を交わしながら、富浦も過ぎ、矢差《やさし》の浦《うら》も過ぎ、飯岡の町に来たから、多分この辺で下りるだろうと思うと、いつしかその町も通り過ぎてしまったから、行先の目的が全くわからなくなってしまいました。
 しかし、これを裏へ出れば屏風《びょうぶ》ヶ浦《うら》となり、遠からずして犬吠《いぬぼう》ヶ岬《さき》があり、銚子の港がある。銚子の港の前面には、利根の長江が遮《さえぎ》っているから、まさかそれをよこぎるほどのことはあるまい。
 犬吠に出でると、海岸の風物が、また全く九十九里とは別の趣《おもむき》になる――多分、ここを初めて見る田山白雲にとっては、その犬吠から、銚子に至る海岸の風物が、また一つの問題となるだろう。彼は外房の風景と比較して、犬吠の岩と、銚子の海とに向って相当の見識があり、議論もあるだろうと思われる。
 それとは別に、これより先、その銚子の海の一部分、外に向ったところの、俗に黒灰浦《くろばいうら》というところに、極めて滑稽な事件が一つ出没しておりました。
 滑稽な事件が出没するというのは、滑稽な事件がまさに起っているのでもなく、現に起りつつあるのでもなく、これから起ろうとするのでもなく、今や盛んに起りつつ、消えつつしているのだから、出没しているというよりほかは、言いようがないと思われます。
 それは一個の怪物――頭の毛の赤い、素敵に大きな眼鏡《めがね》をかけた男性の怪物が、黒灰浦の真中の海へ深く潜《もぐ》り込んだかと思うと、暫くあって浮き上り、浮き上ると共に、あっぷあっぷと息をついて、浮袋にだきついて、きょろきょろと見廻し、巌が笑うような笑いを一つしてから、また浮袋を離れて、海の深いところへ没入したかと思うと、暫くして浮き上り、仰山《ぎょうさん》な顔をして、自分がいま沈み入ったところの海の中を見入りながら、あわただしく息をきって、後生大事に浮袋にしがみつき、そうして暫くしてまた勃然《ぼつぜん》として、海の中に没入して姿を見せないでいるかと思うと、せり出しのように浮き上って来て、仰山な眼をして、もぐり込んだ海の中を見込み、息と水を切り、後生大事に浮袋にしがみついている。
 その有様が、おのずから珍無類の滑稽になっているのであります。
 いったい、滑稽というものは、企《たくら》んでそういう仕草《しぐさ》をして、人を笑わせんがために存在することもあれば、当人は大まじめ――むしろ命がけの真剣さを以てやっていることでも、はたで見ると、どうしても滑稽とよりほかは見られない悲惨なる現象もある。
 また当人も滑稽と思わず、それを滑稽として見るべき看衆《かんしゅう》の何者もない時にも、挙動そのものが、滑稽になりきっていることもある。
 お気の毒なことには、天地間にその滑稽を見て笑い手が無い、まさに滑稽の持腐れ。ここに出没している御当人と、その為しつつあることが、まさにその滑稽の持腐れに似ている。
 滑稽の持腐れも、かなり楽な仕事ではないらしい。
 化け物なら知らぬこと、人間である以上は、二分間より以上の潜水は至難のことでなければならない。ところがこの滑稽なる出没は、どうかすると二分間以上沈んでは、また浮き上ることもあるから、その都度都度《つどつど》の呼吸はかなり切迫しているらしく、浮袋にしがみついた瞬間は、全く命からがらと見なければならないのですが、それがどうも、滑稽としか見えないのは、この人物の持味《もちあじ》の、幸と不幸との分れ目でしょう。
 見る人が無い、笑う人が無いから、この滑稽の持腐れは思いきって発揮される!
 浮き出す度毎《たびごと》に、その無恰好《ぶかっこう》に大きな頭の赤毛の揺れっぷり、苦しがって潮を吹く口元、きょろきょろと見廻す眼鏡の巨大なのと、その奥の眼の色の異様なのも、物それを少しも怖ろしくしないで、いよいよ滑稽なものにする。
 これぞ前名のウスノロ氏――今や駒井造船所の新食客マドロス君その人であると知った時には、見る人の口が、唖然《あぜん》としてふさがらないことと思います。
 これは、ジャガタラ薯《いも》のマドロス君に間違いはないのであります。
 マドロス君が海の中に出没しているということは、炭焼氏が山の中を徘徊しているのと同じことに、あたりまえのことなのですが、本来、あちらの方の、洲崎の留守役に廻っていることとばかり信じきっていた人が、早くもここに先廻りをしている順序となっているのですから、知らない人は、ちょっと面食《めんくら》うかも知れない。
 だが、それとても、有り得べからざることでもなんでもありません、マドロス君が先発して、こちらに来ている――駒井氏と、田山氏が、後詰《ごづめ》として、そちらへ出張して行く――と見れば不自然でも、意外でもなんでもないことですが、ただマドロス君の海の中に於ける独《ひと》り相撲《ずもう》が、あまりにふんだんに滑稽の持腐れを発揮していただけに、前後の聯絡が、少しばかり意外の感を起さしめるというに過ぎないでしょう。
 しかしながら、天下に有用なものでも、無用なものでも、有るものが発見されないという例はなく、発見せられて、その存在の価値を評価されないという例も、極めて少ないことであります。
 せっかく、ここで多量に発揮されていた滑稽の持腐れも、やがては認めらるるの時が来ました。
 それは駒井、田山の両氏がここに到着した当然の結果ではありません。無論二人が到着すれば、マドロス氏の演ずる滑稽の、決して単なる滑稽にあらざる所以《ゆえん》も、明白に分明することと思いますが、滑稽が、奇怪を以て認められたのは、それより以前、別の人によってなされたことでありました。
 竿と、ビクとを携《たずさ》えた漁師の子供が二人――夫婦《めど》ヶ鼻《はな》の方から、ここへ通りかかって、ふと件《くだん》の滑稽なる持腐れを発見した第一の人となりました。
 この二人にとっては、滑稽がまず非常なる驚異として現わされました。二人は、砂へ足を吸いつけられたように突立って、件の怪物を遠目にながめ、次に来《きた》るものは恐怖であります。
 恐怖とはいえ、それは青天白日のことではあり、呼べば答えるところに、人間の影もあるという安心から、恐怖の次に逃走とはならず、恐怖に加うるに好奇を以てして、海中を見るの余裕があります。
 滑稽といい、真剣といい、驚異といい、好奇といい、また恐怖という、要するに一つのものの異なった見方であります。
 これより先、房州の海辺ではお杉のあまっ[#「あまっ」に傍点]子が、前世紀の海竜《うみりゅう》を発見して、海岸一帯に一大センセーションを巻き起したこともありました。
 今や、前にいう通り、青天白日のことであり、勇敢にして、海に慣れた二人の少年は、あの時のお杉のあまっ[#「あまっ」に傍点]子ほどには狼狽《ろうばい》と、醜態とを現わしませんでした。少なくとも、恐怖と、好奇とを以て、前面に横たわる怪物の正体を見届けようとして、
「何だい、ありゃ」
「鮪取《まぐろと》りの善さんじゃねえけえ」
「善さんは、あんなに頭の毛が赤かあねえぞ、それに、もっと面《かお》の色が黒《くれ》えぞ」
「今、へっこんだから、もう一ぺん見てえろ、出て来るところを見てえろ、善さんだか、そうでねえか、見てえろ」
 二人は一途《いちず》にその海の面《おもて》を見入ります。
 それはマドロス氏が、また浮袋を離れて海に没入した瞬間に於て、次の浮揚期間を待つものでしたが、それでも彼等は、怪物とも、化け物とも見ないで――それを村の鮪取りの善さんなるものと比較対照していたが、浮び出でた時は、決して鮪取りの善さんなるものではありません。
 それはむしろ、彼等もその通りに期待していたのですが、再び現われた瞬間を見ると、鮪取りの善さんなるものとは、あまりに相違の甚《はなは》だしかったものですから、二人はあっと仰天し、
「善さんじゃねえ、善さんじゃねえ――大江山のスッテンドウジだ」
 かくて二人は、釣竿と、ビクとを宙にして、面《かお》の色を変えて走り出しました。
 この二人の少年は、町の方に向って走りながら、宣伝をはじめました、
「黒灰の浦にスッテンドウジが来ているよ」
 それを聞く少年少女らは、恐怖に打たれて耳をそばだてたが、大人連はいっこう取合いません。
「大江山のスッテンドウジが、黒灰の浦に来ているのを見て来た
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