よ、ほんとうに嘘じゃねえんだよ、こうして泳いでいるところを……」
 二人の少年は、力を極めて、自分たちの目撃して来たことの真実なることを証明せんとしたが、それらは、少年同士の好奇と、恐怖を催すだけで、大人たちにとっては、訴えれば訴えるほど、笑止《しょうし》の種となるだけでした。
「スッテンドウジは、山にいるもので、海へ来るはずのものじゃねえよ」
 けだし、スッテンドウジというのは、大江山の酒呑童子《しゅてんどうじ》のことで、それはとうの昔に、源《みなもと》の頼光《らいこう》と、その郎党によって退治されているはずのものです。しかしながらその面影は絵双紙に残って、彼等少年たちの印象に実在しているのでしょう。
 かくて、少年たちは、好奇より恐怖が多いせいか、行って見ようとはいわず、大人たちはてんで一笑に附して問題にしないから、根限《こんかぎ》りの二人の宣伝が、ここでは全く無効になりました。そこで少年たちは、自分たちの現に見て来た事実が信ぜられないのを、自分たちの信用が剥落《はくらく》したかの如く残念がり、その宣伝を有効ならしめようとあせりつつ、榊新田《さかきしんでん》の陣屋跡までやって来て、陣屋の中をのぞき込みました。
 榊新田の古陣屋は、高崎藩が、この海岸の守護を承って、千人塚に砲台を築いた時分の名残《なご》りで、塀崩れ、屋根破れていたのを、昨今になって修理して、その中に人が働いています。
 二人の少年が、のぞき込むと、車大工の東造爺《とうぞうじい》が、轆轤《ろくろ》をあやつっている。
「爺《じい》、大変なことがあればあるもんだぜ、黒灰へスッテンドウジが来ているよ、爺、お前《めえ》、早く行って見て来な」
 車大工の東造爺は、けげんな面《かお》をして、
「え、スッテンドウジが――スッテンドウジが黒灰の浦へ来たって?」
 東造爺だけが、少なくもこれだけに受入れてくれたのに、二人が力を得て、
「頭の毛の赤い、眼のこんなにでけえ、絵に描いてある通りだよ!」
「へえ……」
「爺、早く行って見な。行くんなら、鉄砲を持って行ったがいいかも知れねえぜ」
「は、は、は、は」
 かわいそうに、せっかくここまで来て、東造爺までがまた一笑に附しはじめました。
 少年たちは、見るも無残にしょげ返ったが、それでも、
「は、は、は、は」
と第二笑に附した東造爺は、ほかの者がしたように冷たいものではなく、その中には多分の同情を含んだ会釈《えしゃく》を以て慰め面に、
「お前たちが見たというスッテンドウジは違うよ、性《しょう》がわかってるよ、驚くには当らねえよ」
「爺《じい》、お前《めえ》、知ってるのかい、あのスッテンドウジを……」
「は、は、は、お前たちが黒灰の浦で見たというのは、髪の毛の紅い、眼のでっけえ、海ん中に浮袋を持って、浮いたり沈んだりしていた奴だろう。あれは、スッテンドウジじゃねえのさ、おらが家のお客様だよ」
「え、お前《めえ》んちのお客様?」
「そうさ、もうやがて、ここへ帰って来るから見てえろ」
「鮪取《まぐろと》りの善さんじゃねえだろな」
「違うよ、全く別のお客様だよ」
「そうか、ほんとうにお前んちのお客様かえ。でも、大江山のスッテンドウジにそっくりだったぜ。お前んちにあんなお客様が、どこから来ていたんだ」
 その時、真向うの畑道から、問題のスッテンドウジが抜からぬ面《かお》でやって来る。

         四

 来て見れば、これは極めて結構人《けっこうじん》らしい一個の西洋人で、東造爺に向って何か一言二言いっては、大きな面をゆすぶって、にやにやと笑っているところ、どうしても恐怖ではなく、滑稽の部に属しているものですから、力瘤《ちからこぶ》を入れた子供たちも安心して、傍へ寄って来て、しげしげとながめます。
 浮袋を片手にさげ、多分重し[#「重し」に傍点]につけて海へ沈んだものだろうと思われる鉄の玉を下へ置いたマドロス氏は、炉辺に有合せの丼《どんぶり》を取り上げると妙な手つきをして、小屋の後ろの方を指さし、何をか哀願するような表情をしつつ出て行ってしまいました。
 恐怖から解かれて、好奇ばかりになった子供たちは、あとを慕《した》ってついて行って見ると、小屋の後ろの桃の木の下につないであった一頭の牝牛《めうし》のところへ来て、右の異人が、
「ハウ、ハウ」
と、妙な叫びを立てました。
 そこで、何をするかと見てあれば、マドロス君は徐《おもむろ》に牝牛の下に手を入れて、その大きな乳房を撫でてみているうちに、丼を下へあてがって、乳をしぼりはじめたものです……その乳がなみなみと丼の上に溢《あふ》れ出した時分、それを無造作に自分の口もとへ持って来て飲んでしまいました。
 口もとまで来る時分、何をするのかと心配して見ている子供らは、毛唐人がそれを一息にグッと飲んでしまったものだから、驚嘆の叫びを立てないわけにはゆきません。この子供たちのあいた口がふさがらない先に、またも一方の乳房をとらえて、しぼりにかかりました。
 この勢いでは、この牝牛の乳をみんな絞って、みんな飲んでしまうかも知れない、牛の子の飲むべき乳を――人間が横取りして飲んでしまうなんて、なるほど、毛唐というものは随分ひでえことをするなあ――という表情が、子供たちの面《かお》に現われる頓着もなく、再度の丼《どんぶり》はことごとく飲みつくされてしまいました。
 それで多分、渇きが止ったのでしょう、悠々《ゆうゆう》として陣屋の方へ引返して来る。子供は、やっぱりそのあとについて戻る。
 幸いに、ここは町並を少し離れたところでしたから、わいわい連《れん》があまりたからなかったものの、それでも陣屋のあたりが、ようやく物さわがしくなってきました。
 マドロス氏は、そこで無雑作《むぞうさ》に板の間張りの上へあがり込んで、数多《あまた》の職人の中を分けて――車大工の東造爺がいるばかりではなく、ここにはなお幾多の若い職人が働いて、同じように皆、驚異の眼をマドロス君に向けている中を、ニヤニヤと笑いながら通りぬけて、一方の板の衝立《ついたて》の蔭の、誰にも姿を見せないところで、急ごしらえの椅子テーブルに身をもたせ、お手の物のマドロスパイプに火をつけてすまし込みました。
 この時分になって、スッテンドウジの宣伝が利《き》き出したものか、この陣屋敷のあたりへ、むやみに人が集まって来る気配《けはい》でしたから、東造爺は気を利かして冠木門《かぶきもん》の戸を締めきってしまいました。
 門の外で体《てい》よく食い留められた連中は、汐時《しおどき》がよかったせいか、強《た》って見せろと乱入する者もなく、暴動を起して不平を叫ぶこともなく、まあ、明日という日もあるから、見られる時はいつでも見られる、そう急《せ》くなよ、といったような面《かお》ぶればかりですから、穏かです。
 その時分、日もようやく傾きはじめて、海の方へ落ちた余光が、あざやかに、この古陣屋の屋根の上の兵隊草をまで照らして来ました。
 陣屋の中では、車大工とその数人の弟子たちであろうところの者が、静まり返って仕事をしている時分、門の外に佇《たたず》んでいた近隣の人たちが、
「そら、お役人様が来たぞ」
「お役人様じゃ無《ね》え、やっぱり、あの毛唐人の仲間らしいよ」
 二騎|轡《くつわ》を並べてこの場へ来合わせたのが、駒井甚三郎と田山白雲です。

 こんな面ぶれが相前後して、こんなところへ事々しく集まって来たという理由は、ふとした聞きかけが最初でありました。
 これより先、駒井甚三郎が、このたびの造船に当って、何物よりも苦心しているのは、蒸気機関の製造であったことは、前に申した通りです。
 他の部分は、ほとんど完全に設計が出来、順調に工事も進行し、大砲の据附《すえつ》けでさえが、駒井の知識と、技能を以て、立派に完成の見込みがついたのにかかわらず、蒸気機関だけは苦心惨憺を重ねて、未《いま》だその曙光を見ないという有様であります。
 これは、その当時の日本としては、全く不可能のことであり、駒井が不可能ならば、無論、日本の国のどこへ持って行っても、可能のはずがないことは、何人よりも、当人自身が熟知しているところです。
 最初の計画は、必ずしも、機関を要せずとも、帆力《はんりょく》を応用することによって成算を立てたけれども、どうしても補助機関が欲しくなるのは道理である。
 そこで無謀に近い熱度を以て、駒井が自身その製作――というよりは、創造よりも困難に近い仕事に当ろうと決心したのは、一日の故ではありません。
 彼は、これがために、この忙しい間を、石川島の造船所へ行ったり、相州の横須賀まで見学に出かけたりしましたが、駒井が時めいている時ならばとにかく、今の地位ではその見学も思うように自由が利《き》かないのか、途中から専《もっぱ》ら書物によることにして、蘭書や、英書のあらゆるもの――それは幸いに、自分が在職中に手をのばし得る限り買い求めておいたから、それによって工夫を立てることに立戻りました。
 とはいえ、こればかりは、いかに駒井の優秀な頭脳を以てしても、一年や半年の間に捗《はか》を行かせようとしたことが無理で、駒井も、今はほとんど絶望の姿で、どのみち、機関無しの最初の構造に、逆戻りするほかはあるまいとあきらめるばかりです。
 かく諦《あきら》めながらも、それでも彼の不断の研究心が、未練執着を断ち切れなかった時――偶然にも、彼の手許《てもと》へ新客となったマドロス君が、無雑作に、今の駒井の胸をおどらすようなことを言い出しました。
 それは、この銚子の浜のうちの「クロバエ」という浦へ、先年、ある国の密猟船が吹きつけられて来て、そのなかの一隻が破壊して、海の中へ沈んでしまった。乗組は、ほとんど仲間の船に救助されたが、船のみは如何《いかん》ともすることができず、完全にあの海の中に沈んでいる――それは二本マストの帆船《はんせん》ではあるが、サヴァンナ式の補助機関がついていた。それがそのままそっくり、銚子の浦のクロバエの海に沈んでいる――ということを、マドロス君が、駒井に向って、偶然に語り出でたのです。
 その某国《ぼうこく》というのはどこか知らないが、多分オロシャではないかと思われる。
 そうして、このことを語り出でたマドロス君の言い分が、でたらめのホラでないことは、その言語挙動の着実が証明する。
 おそらく、この先生も、当時その密猟船のうちの一つに乗っていて、親しく遭難の一人であったのか、そうでなければ他船にいて、実際、その船の沈むまでを見ていたものとしか思われないくらいの話ぶりでありました。
 さほどの船を沈めっぱなしで、音沙汰《おとさた》もなく行ってしまったのは、彼等密猟船自身の、疵《きず》持つ脛《すね》であろう。
 これを聞くと駒井は、天の与えの如き感興に駆《か》られてしまいました。
 その結果が、ここに、右の密猟船の引揚作業を企《くわだ》てることとなったので――船全体を引揚げることができないとすれば、その機関だけでも――その熱望が、ついにマドロスを先発せしめ、自分はこうして田山と相伴うて、ここまで集まり来《きた》ったという次第であります。
 来て見れば、高崎藩の旧陣屋を利用した引揚事務所と、その準備とは、自分があらかじめ指図をしておいたのにより、遺憾《いかん》なく進行している。
 水練に妙を得たマドロス君は、先発して、黒灰の浦の船の沈んだ海面を日毎に出没して、たしかに当りをつけてしまった。
 設備さえ完全すれば、船全体を引きあげることも、必ずしも不可能ではないようなことを言う。また潜水夫の熟練なのさえあれば、補助機関だけを取外して持って来るのも、難事ではないようなことを言う。
 しかし、事実はそれほど簡単にゆくかどうか、駒井も決して軽々しくは見ず、引揚げに要する、この附近で集め得らるる限りの人員と、器具とを用意して、黒灰の浦に集め、海岸に幕を張って事務所を移したのは、到着のその翌々日のことでありました。
 その日になると、黒灰の浦は町の立ったように賑《にぎ》わう。
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