どの地点を歩ませているのだか、どちらに向って歩ませているのだか、何を目的にここへ出かけて来たのだか、その辺のことが忘れられている。
 二人の歩ませている地点は、蓮沼から富浦の間あたりのことで、行手は飯岡の岬、こし方《かた》は大東の岬、かれこれ九十九里の中央あたりのところを東北に向って、つまり飯岡であり、銚子である方面へ向って、静かに進んでいるのであります。
 もう少し大ざっぱな数字でいえば、九十九里を四十七里半あたりのところまで、日本里数の十五里と見れば、七里半あたりのところまで進みつつありながらの、以上の会話であります。
 二人の歩ませつつある地点はそうだとしても、二人はまた何用あって、この辺まで遠出をしてしまったものか。
 それは一口に房総半島とはいうけれど、駒井の根拠地である洲崎《すのさき》の鼻から見れば、ここは数十里を距《へだ》てている地点であります。
 さればこそ、二人のいでたちも、あの辺の海岸を、仕事の上や、興に乗じての散歩で往来するのと違い、立派な旅の用意になっているのが証拠ですけれども、その用向のほどは、甚《はなは》だ不可解なものがあります。
 第一、二人がこうして、出立してしまった後のことを考えてみるとよくわかる。
 造船所の方は、もはや相当に任せきっても、多少の時日は明けられることに心配ないにしても、その遠見の番所の留守宅というものが気にかかるではないか。
 こうして、肝腎の二人が出て来てしまったあとの留守のことを想像すれば、二人とても、そう暢気《のんき》に、古今を談じているわけにもゆくまいではないか。
 清澄の茂太郎は何をしている、岡本兵部の娘も精神状態が心もとないのに、金椎《キンツイ》は耳が聞えないのに、マドロス氏は言葉が通じない。ことにマドロス氏はややもすればウスノロ氏に逆戻りをするような憂いはないか。
 ともかくも、駒井と、田山と、二人のうちが一人だけ残っていればまだ安心なものを、二人が轡《くつわ》を並べて出てしまっては、実際あとのことが思われる。せっかく、泊りを重ねて外出の必要があるならば、駒井は、むしろ田山に後を託して置いて、多少の世話は焼けようとも、マドロス氏あたりを引具《ひきぐ》して来るのが賢明ではないか。
 マドロス氏がいけなければ、むしろ金椎でも供につれて来る方がよかった――
 だが、そんなことまで心配する必要はあるまい。二人ともにこうして悠々《ゆうゆう》と出馬のできるにはできるように、相当の後顧《こうこ》の憂いを解決しておいたればのことで――子供ではないから、その辺に抜かりのあるべきはずもなかろうではないか。
 ただ一つ、思われるのは例の茂太郎という小倅《こせがれ》が、天馬往空の悪い癖で、今度は河岸《かし》をかえて東北地方へでも飛び出し、兵部の娘がそれを追っかけて、例の夜道昼がけを厭《いと》わぬ出奔《しゅっぽん》ぶりを発揮したために、二人が取押え役としてここまで出向いて来たのかと、ちょっと想像も働くが、それにしても二人の落ちつき加減は、駆落者を追ったり、追われたりする空気ではない。
 そうして、おのおの談論を交わしながら馬を進めて行くうち、駒井が、ちょっと手綱《たづな》を控えて、海岸の一点を見つめました。
 さては、また例の平沙《ひらさ》の浦のいたずらな波がするすさび[#「すさび」に傍点]のように、女軽業《おんなかるわざ》の親方の身体《からだ》をでも、そっと持って来て、その辺の砂場へ捨てたのか、そうでなければ、またジャガタラ芋《いも》の一俵もころがっているのか。
 駒井は、早くも馬からヒラリと飛び下りて、波打際に小走りに走って行ったものですから、田山が眼を円くしていると、駒井の拾い取ったのは女軽業の親方でもなければ、ジャガタラ芋の根塊《こんかい》でもありません――それは通常のビール罎《びん》一本です。ビール罎の上に赤く十の字が書いてある。通常のビール罎とは言いながら、その時代においては、ビール罎は、決してありふれたものではありません。
 けだし、日本に於ては、英国人コブランという者が、明治の初年、横浜にビールの醸造所を設けたくらいですから、その以前に入って来ているには相違ない。その道の人は、相当に味を知っているに相違ないから、自然ビール罎なるものも、一部の方面においては、そう珍奇な物ではなかろうが、田山白雲には目新しいものでありました。
 本来ならば白雲もずいぶん飲む方ですから、境遇によっては、すでに、もはや馴染《なじみ》になりきっているかも知れないが、不幸にして彼は貧乏でしたから、外国の酒にまで手をつける余裕がなかったかも知れません。
 よし、その余裕があったからとて、彼の気性では、夷狄《いてき》の酒なんぞに、この腸を腐らせることを潔《いさぎよ》しとしなかったかも知れない。
 そこで彼は駒井の挙動をも不審なりとし、そのビール罎なるものをも珍しとして、馬上から問いかけました、
「何です、それは」
「西洋酒の罎です」
「イヤに黒い、下品なギヤマンですな」
と、一応は夷狄のものをケナしてみるのも、一つの癖かも知れません。
「西洋酒といっても、そう上等な酒ではありません、といって下等というわけでもないです、上下おしなべて飲みます、ビールというやつで、麦の酒です、麦酒《むぎざけ》です」
「ははあ、麦の酒ですか、麦の酒じゃ、熱燗《あつかん》にして飲むわけにゃあいきますまい」
と田山が言いました。
 それは、ビールというものが、燗をして飲む酒でないということを知って、そう言ったのではありません。
 酒というものは本来、米の精であればこそ、これに燗をして、キューッと咽喉《のんど》に下すことに趣味があるのだが、ばくばくたる麦ではうつりが悪い、ばくばくたる麦酒を、燗をして飲むなんぞは、あんまり気が利《き》かないと思ったものですから、偶然そんなことが口走ったのです。
「燗をして飲む酒じゃない、このまま飲むのだが、これは無論空罎です。これについて面白い話は、嘉永六年にペルリが浦賀へ来た時分、アメリカの水兵どもがこの中身を飲んで、空罎をポンポン海の中へ捨てたものです、それが、こんなあんばい[#「あんばい」に傍点]に海岸に流れつくと、浦賀あたりの役人がそれを見て、あれこそ毛唐《けとう》が毒を仕込んで、日本人を殺そうとの企《たくら》みで投げ込んだものだから、拾ってはならない、無断であの空罎を拾った者は、召捕りの上、重き罪に行うべしとあって、人を雇うて毎日流れついて来る無数の空罎を怖々《こわごわ》と拾わせ、これを空屋の中へ積込んで、厳重に戸締りをして置いたものだ」
と言いながら、駒井は丁寧にこれを拾い、懐紙を抜き出して周囲《まわり》の海水を拭い、大切にこちらへ持ち帰りますから、
「毛唐の飲みからしの空罎《あきびん》なんぞを拾って、何になさる」
「見給え――この通り、厳重に封がしてあって、口に符号がつけてある」
「それじゃ、まだ中身があるのですか」
「中身といっても酒じゃない、酒は飲んでしまって、その空罎を利用して、中へ合図をつめて海に流したものです」
「ははあ」
「海流の方向を知るために、或いは何か通信の目的で、そうでない時は、単なる好奇心で罎の中へ、何事かの合図、或いは通信文を認《したた》めて、固く封じ込んで、海の中へ投げ込むと、これが漂い渡って、思わぬ人の手に拾い取られる、その拾い取った人は、投げ込んだ主《ぬし》に返事をしてやる――という仕組みになっている」
「あ、そうですか、つまり、平康頼《たいらのやすより》の鬼界《きかい》ヶ島《しま》でやった卒塔婆流《そとばなが》しを、新式に行ったものですね。そうだとすると、相当に面白い浦島になるかも知れません、封を解いて見せていただきたいものです」
 田山も、好奇心に駆《か》られて、馬から飛んで降りました。
 駒井甚三郎はナイフを取り出して、流れ罎の口をあけようと試みながら、
「海に関係のある職業の人が、海流を調査するためにこれをやったのか、航海中、船客が戯れに投げ込んだものか、或いは漂流者か、誘拐者《ゆうかいしゃ》なんぞが、危急を訴えんがために、万一を頼んでやった仕事か、いずれにしても、この罎の中には、何かの合図があるに相違ない」
と言いました。
 田山白雲は額《ひたい》を突き出して、駒井のなすところを見ていたが、駒井は巧《たく》みに罎の口をあけると、それをさかさまにして、程なく一通の紙片を引き出しました。
「ありましたね」
「ホラ、何か書いてあります」
 空罎は下へ投げ捨て、駒井はその紙片をとりのべて見ると、そこに横文字の走り書がある。
 最初から駒井は、これは、航海用の事務としてやったものではないと思っていました。
 海流調査かなにかのためにやるんならば、もう少し仕事が器用で、事務的に出来ていそうなもの。どうも素人《しろうと》の手づくりで、臨時に投げ込んだもののようだから、たしかにこれは、漂流の人の手に成ったものか、そうでなければ誘拐の憂目《うきめ》に逢うた人が、訴えるにところないために、やむを得ずこの手段に出でたものだろうと想像していました。
 しかるに、その現われた紙片の文字が横文字であったものだから、少しばかり案外には思ったが、横文字だからとて、その想像が外《はず》れたということはない、横文字で危難を訴えたり、危急を叫んだりすることはいけないという規則もない――問題はその意味を読んでみることです。
 駒井は、仔細にその横文字を読んでみると、英語で次の如く認めてあることを発見しました。
[#ここから1字下げ]
It is the great end of government to support power in reverence with the people and to secure the people from the abuse of power; for liberty without obedience is confusion; and obedience without liberty is slavery.
[#ここで字下げ終わり]
 駒井は、これを一通り読んで後に、最後の署名で頭をひねりました。
 その署名は William《ウイリアム》 Penn《ペン》 と読むよりほかはありません。それはそれに違いないが、このウイリアム・ペンという名は、この文句を唱え出した人の名だか、或いはこの流れ罎[#「流れ罎」に傍点]を投じた人の名だか、その辺がよくわかりません。
 だが、いずれにしても、この短い文句は、ウイリアム・ペンなる人の頭脳か、筆蹟かの産物であるに相違ない。或いは、ウイリアム・ペンという人の著作かなにかの中の文章を抜き書したのかも知れないと思いました。
 しかし、その当時の駒井は、どうもウイリアム・ペンという著名なる学者著作者の名前を知りませんでした。
 そこで、ウイリアムはよく西洋人には見える名だから、ペンというのは筆のことで、つまり、これは「ウイリアム手記」というような記号ではないかとさえ思いました。そんなように考えながら、一通り読み了《おわ》った駒井は、それを最初から好奇心を以て覗《のぞ》いていた田山の手に渡しますと、
「ははあ、全部横文字ですね、癪《しゃく》にさわるなあ。いったい、何を書いてあるんです」
と言いながら、半ば好奇、半ばイマイマしさに、それでもまだ負けない気を眼の中に湛《たた》えて、たとえ横文字とは言いながら、一字や、一句は、どうにかならないものでもあるまいと見つめていると、駒井の説明には、
「予想と違って、海流の調査でもなければ、漂流人の合図でもなし、そうかといって、ジャガタラへかどわかされた婦人が、危急を訴えたという種類のものでもなし――西洋人の船の中で、誰か消閑《しょうかん》のいたずらでしょう。しかし、いたずらにしても無意義なものではありません、かなり、厳粛な格言になっているようです」
「ははあ、何と書いてあるんです。残念だなあ、こればっかりは泥縄では役に立たない、附焼刃では歯が立たない……」
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