もなりますかな、昨今では、もう全く山の人になりきって、人里へ出ようという気になりませんわい」
「二十年――ずいぶん、長いことですなあ、どちらにお宿をお取りです」
「ははあ、あんた、いつこっちへおいでなすった」
「昨日参りました」
「そうでござんしょう、そうでなければ、とうにわしの事は聞いておいでのはずじゃ。わしはな、この上の無名沼《ななしぬま》のほとりの鐙小屋《あぶみごや》というのにいる神主でござんすよ」
「ははあ、そうでしたか、まだよく存じませんものですから」
「遊びにおいでなさい、ここからホンの一足ですから。一足とは言いながら、それは平常《ふだん》の日のことで、雪の積った時には、その一足が、常の人で二刻《ふたとき》かかりますよ。おいでなさい、焚火をしてあたらせながら、山の話をして上げましょう」
 この神主はそれから兵馬を相手に、自分も若い時分は、さんざんに諸国を廻って、あらゆる世間に接して来たという自慢話をはじめましたが、そのうちに、
「山という山はたいてい歩きましたね、日本国中の有名な山という山には、たいてい一度はお見舞を致しましたが、なんにしても山といっては、この信州に限ったも
前へ 次へ
全157ページ中81ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング