太夫が客に向って曰《いわ》く、あの謡をやめさせてみましょうか、どうぞ頼む――そこで観世太夫が朗々として一曲を試むると、隣室の謡がパッタリと止まった、その日も、その翌日も、それより以来、隣室では謡の声が起らない――しかるところ、数日して隣室の客が代ると、また謡がはじまった、太夫殿、あれをひとつ頼む、先日の伝であれを退治してもらえまいか、太夫、答えて曰《いわ》く、あれはいけませぬ、どうして……先日のは下手《へた》といえども、自ら恥ずることを知るだけの力が出来ている、今度のは言語道断……恥というものを知らないから、拙者の謡を聞いても、逃げないで一層のぼせ[#「のぼせ」に傍点]上るに相違ない」
という話を、北原賢次が、池田良斎に向って物語ると、良斎が、
「全く世に度し難きは己《おの》れを知らざる者と、恥を知らざる者共だ」
 哄然《こうぜん》として笑いました。
 これでもか、これでもか、といよいよすりよって、いよいよその醜があがる。御本人は気がつかないで、そばで見ている時に、気の毒と、滑稽とがあるのみだ。
 望まれて、尺八を取ろうともしない北原賢次は、それでも己れを知るゆか[#「ゆか」に傍点]し
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