斎は、壁の一隅に立てかけてあった一管の笛に眼をとめました。
 誰か湯治客がこの辺で竹を取って、湯治中の消閑《しょうかん》に、手細工を試みたものでしょう。それを北原に取らせようと慫慂《しょうよう》するのを、北原は首を左右に振って、
「いけません、物笑いですから、よしましょうよ」
と受けつけませんでした。本来、北原賢次は、あまり遠慮をしない男で、所望に応じては、ずいぶん臆面なく吹く方ですが、この時は、なにゆえか謙遜してしまいました。
「君にも似合わない」
と良斎から言われても、北原は、
「及びもつかないことです」
と打消しました。
「いやに、イジけてしまったね」
と追究されても、北原は意地を張らず、
「真打《しんう》ちが出てしまったあとに、ヘボが、わがものがおに飛び出すほど、お笑い草はないでしょう。昔、観世太夫が……」
 北原が、自分の笛を吹かない申しわけに、観世太夫へ尻を持って行くのは飛び離れている、と良斎が思いました。
「観世太夫が、ある時、客に伴われて、とある温泉に逗留《とうりゅう》したことがあったと思召《おぼしめ》せ、その隣室に謡好きがあって、朝夕やかましくてたまらないものだから、
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